十月四日(金)戊申(舊九月十一日) 晴れのち曇り

 

今日は、「中仙道を歩く」が書き進みました。今井茶屋本陣を通り、峠への坂道を上りはじめ、金明水を飲み、大岩に驚き、そして鹽尻峠を越えるあたりまで書くことができました。

ところが、午後、妻が、DVDで、ラッセル・クロウの「ノア」と「リディク ギャラクシー・バトル」を借りてきてしまつたので、一緒に、まづ、「ノア」を觀ました。

見はじめて、ぼくは、井筒監督が、「こんなもの作りやがつて!」と、〈東京新聞〉紙上で怒つてゐたのを思ひ出しました。まあ、觀てのお樂しみですが、はつきり言つてマンガです。ただ、ぼくは、これも一つの解かなと思つたところがありました。

それは、ノアが、新しくはじまる世界のために、自分たち家族も含めてすべて人間は滅びなければならないと、神のお告げを聞いてゐたことです。それで、子どもたちの結婚を許さず、生まれてきた双子の女子まで殺さうとするのです。結局殺せないで、それで、神のお告げに從ふことができなかつたノアは、洪水がおさまつたあと、まあ、そこが人間的なんですが、酒に醉ひつぶれてしまふわけです。

『聖書』ではどうかといへば、「ノアは神と共に歩んだ」人でありました。「わたしは地上に洪水をもたらし、・・・地上のすべてのものは息絶える」。しかし、「わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入り・・・生き延びるようにしなさい」、と神から命じられてゐるんです。だから、ノアとその家族は生き延びることが使命であつて、生まれてくる子どもを殺して、自分たちまで死に絶えるやうになどとは『聖書』は語つてはをりません。

これは、ノアが、洪水がおさまつたあと酒に醉ひつぶれてしまつた、その理由をこじつけるための創作だつたのかなと思ひますが、その『聖書』でも、洪水のあとで、ノアは「ぶどう酒を飲んで」つて裸になつてゐます。つまり、ノアが酒につた理由の解釋の問題なんでせうか。それとも、この映畫監督の、この世界をやり直すためには、全人類を絶やさなければならないといふ、あまりにも悲觀的なご意志のたまものなのでせうか。

いづれにせよ、ノアが酒にひつぶれたのは、いくら神の「御心」だからといつて、同じ人間として、自分たちだけ生き延びたことに對するノアの心情を表してゐるんだと思ふのです。

それに比べれば、「リディク2」はとことんお遊びですから、單純に樂しかつたです。 

 

今日の寫眞:「ノア」と「リディク ギャラクシー・バトル」のポスター。


コメント: 0