十月廿二日(水)丙寅(舊九月廿九日) 一日中雨

 

今日は中仙道を歩く第二十回の二日目でした。それが過酷な一日となりました。豫報通りに雨の一日だつたのです。あまり、このツアーは雨が降らうと鎗が降らうと中止にはなりませんなんて言つたばかりに、その通りになつてしまつたやうです。

しかも、八時三〇分に奈良井宿を出發したとたんに鳥居峠がはじまりました。それも初つ端から急坂の連續です。距離はたしかに長くはありませんでしたが、何度も息が上がつてしまひました。途中に、中の茶屋と峰の茶屋といふ二箇所の休息場があつたわけがわかります。いや、かつては下の茶屋もあつたといひます。石畳あり、木の橋あり、一里塚あり、水場あり、周りは紅葉真盛りの木々、しかし、雨に煙つた景色ばかりで、はるかかなたは望めませんでした。でも、負け惜しみではなく、とても美しい森でした。

ところで、鳥居峠の最高地點はどこかといふと、はつきりしなかつたのです。このあたりではないかといふ場所は確認しましたが、標識もありませんでした。その少し下りたあたりに、明治天皇一行が休まれた所がありましたから、たぶん間違ひないと思ひます。標高一一九七㍍の地點です。左手上の一四一五㍍の峠山と、北方の髙遠山(一四六三㍍)からの峰つづきの鞍部に位置してゐるわけです。そして、この峰々を境にして、千曲川と信濃川を經て日本海へと流れる奈良井川と、南方の伊勢湾へと流れ下る木曾川とが、すれ違ふやうに流れる分水嶺なんです。

下る途中に、栃の大木群が見られ、御嶽神社遙拜所があり、芭蕉句碑や古戰場記念碑が建ち竝ぶ公園があり、そのあたりからは一氣に駆け下りるやうにしてふもとまで進みました。トイレ休憩をはさみながら、ぼくはぼくで“落穂拾ひ”をしながら、お六櫛で有名な藪原宿を通り抜け、藪原驛で待つバスの中でお辨當をいただきました。しかし、ぼくは半分も食べられませんでした。一一時一〇分に着き、まだ一〇七〇〇歩でしたが、もうこれで終はりにしたい誘惑にかられました。

 

再出發直後、SL・D51の脇に一里塚を見てから、行軍がはじまりました。見どころがさうあるわけでもありません、木曾川に沿つて、ただ黙々と行進は續きます。ぼくは、それでも、取材半分ですから、あちこち見回しながら、景色も撮影しながらついていかなくてはなりません。それでよけいに疲れるのかも知れません。とりわけ、國道沿ひでは、猛烈なスピードで走るトラックの飛沫と風に煽られるのがこたへました。

巴淵に着いた時には、心底ほつとしました。それから、あの和宮さんの元婚約者だつた、有栖川熾仁親王夫妻が休憩された「小休所跡」を落穂拾ひし、やつと今回のテーマ、木曾義仲の墓地のある德音寺についたら、すでに、二一〇〇〇歩を越えてゐました。「義仲館」も見學しました。そして、管理人のおぢさんから、義仲に關する貴重な資料をいただいてしまひました。これはおほいに利用させていただくつもりです。はい。

ここの場所は、日義村といふんですが、それは、「朝日將軍義仲」の中の「日」と「義」をとつたのださうです。これは笑つたらいいのか、怒つたらいいのか、判斷に困るところですね! 楢川村だつて、奈良井(楢井)と贄川の楢と川をとつてるんですからね、どつちもどつちですが。

それから宮ノ越宿を通りぬけ、中仙道中間地點にやつてきました。感無量と言ひたいところですから、さう思ふことにしました。二六五六六歩の所でした。江戸と京の中間で、それぞれから六十七里二十八丁(約二六六キロ)のところに位置してゐるさうです。でも、ぼくの感じでは、もうとつくに半分以上歩いてきたやうに思へてなりません。

 まだつづきます。中原兼遠屋敷跡の近くを通り、義仲らの手習天神を訪ね、また、國道脇を辛抱強く進み、いや、國道に虐げられつつ、もつと辛抱強く耐へてゐる經塚と芭蕉句碑を見過ごしにしながら、たうとうやつてきたのが、福島宿の入口、その大きな冠木門でした。午後四時一五分到着、一日で、三三四〇五歩でした。

雨のためでせうか、それとも、鳥居峠を越えてなほかつ長距離を歩いたためでせうか、今日はほんとうに疲れました。途中からは胃のあたりがはりはじめて、もう、この時點で夕食は食べられないなと覺悟しました。ホテルに歸るや否やふとんにもぐりこんでしまひました。これほどまでして歩かなくてはならないのかと思ひますが、何だか意地があるのかも知れません。 

 

今日の寫眞:①峠道に分け入る。②雨の中を行進。③ここらが鳥居峠! ④鳥居峠の名のもとになつた鳥居が建つ御嶽神社遙拜所。⑤巴淵。⑥義仲館の義仲と巴の像。⑦中仙道中間地點。⑧福島宿入口、冠木門前にて。

 





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