十月二日(木)丙午(舊九月九日・上弦) 曇りのち雨

 

昨夜、あさのあつこ著『弥勒の月』(光文社文庫)を讀み終へました。竝の時代小説とは違ふと思ひましたが、江戸情緒を描くでもなく、ハードボイルド小説のやうでもありますが、なんと言つても、カタルシスがないのがぼくにとつては減點ですね。やはり、妻が面白いといふものは、大きい聲では言へませんが、つまらなかつたです。はい。

ところで、昨日は、病院の歸りに神保町に寄りました。上田秋成の參考書を探すためです。そうしたら、なんと、中央公論社版の、『上田秋成全集 第一巻 国学編』がみつかつたのです。秋成さんの國學についてもさうですが、本居宣長との論爭に關して缺かすことのできない論考ばかりです。それと、これは高價でしたが、八木書店で、高田衛著『完本 上田秋成年譜考説』(ぺりかん社)を、一應惱んだ末に、買つてしまひました。

「天明六年中に、秋成は全精力をあげて、宣長の学説体系に対抗した・・・。秋成をつきうごかしたもの・・・、(それは)、秋成は私的な次元から発想しながら、学問の名による現実的相対性思考の歪曲を傍観できなかったのである。とくに、宣長の学説とは、事実上はウルトラ的日本皇国主義教化であった。これを傍観することは、秋成の学問の倫理性の否認に通ずるのである。これは、たんなる正義感ではなくて、彼にとっては、切迫した人間的な契機でもあったといえる。また、このゆえに、巨人宣長の巨大な思想体系の本質をつかみ、それと確実に対応し得たのは秋成をおいてなかったのである」。

ここのところを讀んで、手に入れざるを得なかつたのであります。宣長さんをぼくは決してきらいではありませんでしたが、秋成さんとの論爭において浮彫にされたその「ウルトラ的日本皇国主義」を見過ごしにはできません。ましてや、その「教化」が、明治・大正・昭和をつらぬいて感化影響を與へたとならばなおさらであります。現政権が、この敎へに毒されてゐるとは思ひませんが、いや、そんな高尚な手口でないことは明々白日ですが、(心理的な)理屈付けに利用される恐れなしとは言ひきれません。

なんだか、論爭の外堀ばかり巡つてゐるやうで、まどろこしいのですが、なにせ、むづかしいのであります。『呵刈葭(かかいか』はどうにか讀めましたが、宣長さんの『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』と秋成さんの『安々言(やすみごと)』を讀むためには、『古事記』にも觸れなければなりません。課題が大きすぎます。まあ、このために漢文とくづし字・古文書解読の勉強をしてきたのだと思へば、時間はかかつても、ここはふんばりたいです。

そもそも、秋成さんを擁護し、共に論戰を張つた人たちがゐなかつたんでせうか? また、『古事記』と『日本書紀』のどこをどう讀んだら、皇國主義になるのか、そのからくりをぜひとも知りたいであります。はい。 

 

いやいや、おかげで、「中仙道を歩く(十九)」の執筆が進みません。「魁塚」についてはまとめましたが、明治天皇巡幸碑を、日本橋から確認してゐたら時間切れになつてしまひました。なんでまた、巡幸などしたのか、そして、休んだり、泊まつたり、水を飮んだところにまで記念碑を建てる必要があつたんでせうかね? 思ふに、明治政府において、天皇を神格化し、天皇制を庶民にまで浸透させるために必要だつたんでせう! 

 

今日の寫眞:和田峠で見つけた鹿の角。指壓棒に加工してみました。

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