三月五日(水)乙亥(旧二月五日) 雨 

夕べはよくね寝られました。外は雨模様でしたが、目覚めもさわやか、朝食もおいしくいただきました。妻がパン好きなのでおつきあひしてゐますが、ぼくはほんとはご飯が好きなので、「週に一度くらゐは、生卵に焼き海苔に、できればたらこのひとはらでもお願ひいたします」と頭をさげてゐるのですが、今朝もパンでした。しかも、妻は紅茶党、ぼくは母と自分のためにコーヒーを淹れていただきました。まあ、母には息子にコーヒーを淹れてもらつてうれしいと喜ばれてはゐるんですが:。

ところで、食事が終り、またラムを病院へつれて行かなければと思ひながら、BSプレミアムにチャンネルを回したところ、《2億5千万年後の地球》といふ番組がはじまつてゐました。世界各地の科学者たちの話に思はず引き込まれてしまひました。2億5千万年前の地球が、現在ではどのやうに変化をとげたか、そして、来たる2億5千万年後にはどのやうに変化するかといふ内容です。要するに、人類の痕跡はなくなるさうなのです。では何が遺されるか、といふより、次の地球の“人類”、或は宇宙人がゐるとするならば、彼らによつて何かが化石として発掘される程度にしか遺されはしないといふのです。「だから、せめて、化石にもなれなくなるやうな“種の絶滅”はくひ止めなければいけない」、といふ学者の言葉に、ぼくは痛烈な皮肉を感じてしまひました。

つまり、2億5千万年後には、運がよければ、化石として遺るものがあるかどうかの世界になるんださうです。ぼくたちが日々営む生活の痕跡は一切遺らないのです。どうしたもんでせう。ぢやあ、人類の一万年の歴史も、ぼくたちの努力も、さらに明日、明後日のことすらもまつたく無意味なんでせうかね。

瞬間、ぼくは、マルチン・ルターの言葉が脳裏にひらめきました。「明日世界の終りが来ようとも、わたしはリンゴの苗を植え続けるだろう」、といふ言葉です。神さまがすべてをご存知である、なんて短絡的な考へには与したくはありませんが、もちろんルターがそのやうな意味で語つたのかはわかりませんが、たしかに、永遠なる神さまを持ち出したくもなります。また、さうやつて宗教は人々を勧誘してきました。

それはそれとして、ぼくたちの先祖において、なぜ子孫を残すことが最重要課題だつたかといひますと、それは、自分を祀つてくれる子孫がゐなくなるといふことが最も恐れられたからなんです。自分を祀つてくれる子孫がゐるといふ、そこに、先祖となる自分たちの生存意義を求めたんでせうね。そのためには、養子でもよかつたやうなのです。 

まあ、百年、いや四、五十年先のことすらも思ひのおよばないぼくたちですから、2億5千万年後なんて想像すらできない世界です。ルターではありませんが、すべてがなくならうとも、今の努力は決して無意味ではないのだと思ひたいです。ぼくは、「リンゴの苗」といふわけにはいきませんが、目の前の課題に取り組むことそのことが、生きてゐる証しなのだらうなと思ふばかりです。いつか、すべてが無に帰さうとも、今を生きてゐるといふ「本物の経験」を日々追ひ求めていきたい、さう思ひました。

 

今日も、ラムを動物病院につれて行き、点滴注射をしていただきました。吐くこともなく、食欲も出てきたし、オシッコも出るやうになりましたので、あとは薬を飲んで様子を見ることになりました。年齢の割には若いといはれてゐるんですが、だからといつて、歳のせいにしてあきらめることはしたくないと思ふのです。

 

今日の写真:病院にてと、ぼくの両足にかこまれていびきをかいて寝るラム。