三月六日(木)丙(旧二月六日・啓蟄) 晴れのち曇り、北風寒し 

北小路健著『古文書の面白さ』(新潮選書)を読み上げました。おかげで、また寝不足であります。一貫して古文書にまつはる話なんですが、それが、著者の人生をありのままに語つてゐるところが、ハラハラドキドキ、実に面白いんです。もちろん、古文書に興味がなくても、昭和初期から敗戦にかけての、いはゆる満洲における日本人の生活、そして敗戦直後の日本への帰還の苦労は、まるで映画を見てゐるやうでもあるんです。

それにしても羨ましいと思つたのは、「古文書」に淫してゐると言はざるを得ないやうな生活、否、生涯なんですが、だからといつて、一か所に留まつてゐないといふことなんです。はじめ、著者は、『源氏物語』の研究者として出発し、その働き場を満洲にもとめたんですね。

ところがです、「蔵書一万数千冊を焼棄てられ、投獄され、中国大陸に果てなき運命の道程を歩んだ国文学者が語る幾多の古文書の出会い」、と本の帶にあるやうに、引揚げ後、古文書解読の力を活かして、まづ、「明治期の自由民権運動史の研究」を開始します。しかもそれは、「他人様の書かれた著作物や論稿を鵜呑みにするのではなく、・・私は独自に底辺の生の資料にじかに触れつつ人間の体験した歴史として実感してみたいと念じたのである。現地を踏査し、原物を確かめ、文書の原典に目をこらしながらのながい旅がつづいた」。

古文書つて魅力あるんですね。〈著者のことば〉にかうあります。「文字を書き残すといふことは、この世に生きた人間の、肉体の消滅を前提とする執念であると思う。多くの家をたずねまわって、さまざまな文書(もんじょ)と邂逅してみて、私はその感をいっそう深くする。故人は百年二百年の歳月をへだてて、墨痕を媒介として何かを語りかけ、何かを伝えようと、息をひそめていたとしか思われない。虚心に読めば、文字からは遠い肉声が聞け、体臭さえ漂ってくる。古文書を原典で読むということは、私にとっては、歴史をじかに感じ、それに触れることであった」。

著者は、さらに、明治を知るためには江戸時代をひろくふかく知らなければならないと考へて、「遊女を突破口にしようと思いたつ」のです。ぼくは、この件(くだり)を読んで、すぐネットで『遊女 その歴史と哀歓』を注文してしまひました。

そして、さらに、あの島崎藤村の『夜明け前』に取り組むんです。つまり、諸資料に当たるだけでなく、馬籠宿を中心とするたくさんの旧家を訪ねて、埋もれてゐる古文書発見の旅をつづけるのです。このへんが、この本のやま場でせうね。藤村がどのやうな資料を使ひ、またどの部分を切り捨て、また生かしたか、藤村がもしこの古文書を見てゐたら、もつと深く書けたんではないかと思はれる文書を発見したりの、それこそ、知的な冒険と言つても言ひ過ぎではありません。それで、その成果である、『木曽路文献の旅』の正続と出してきて、めくつてしまひました。それにしても、古文書の解読能力を高めなければならないと、ぼくは思はず力を込めて両手をこすりあはせてしまひました。

 

ところで、昨日の写真は、実は、デヂカメを忘れたので、携帯電話のカメラで撮つたものです。そして、いつもは、撮影したマイクロSDカードを出して、パソコンに取り入れてゐたんですが、昨日は、試しに、撮影した写真をメールに添付してパソコンに送つてみたのです。さうしたら、何の問題もなく、カメラと同じやうにフォルダーに収納できたんです。気づいてみれば、なんだといふことになるんですが、これでまた少し行動が自由になりさうです。

 

今日の写真:『古文書の面白さ』と『木曽路文献の旅』。それに、『夜明け前』の〈牛方騒動〉のモデルとなつた事件の、実際に牛方が書いた文書の例。反古から発見された!