三月(弥生)一日(土)辛未(旧二月朔日) 曇天、小雨ふつたりやんだり

鳥肌が立つてしまひました。飯島和一著『出星前夜』を読みはじめたんです。読書に、ついつい面白さを求めてしまふぼくにとつて、これは手強い、いや大変重い内容です。まだ出だしの所で、ぼくの“島原の乱”に対する思ひ込みが粉砕されてしまつたのです。

ぼくの癖で、歴史ものを読む場合には、まづ『歴史事典』を見て、年表、地図、時には系譜などで全体像をつかんでから読みはじめます。《歴史年表》には、「一六三九年(寛永一四年)一〇月 島原の乱起こる」とあります。それに今回は、『歴史事典』では飽き足らず、もう少し詳しく調べました。最初は、「六国史以降の歴史を扱った年表」である、『史料綜覧』(巻十七江戸時代之四)です。「十月廿一日、肥前島原城主松倉勝家ノ封内ニ、切支丹宗徒蜂起シ、代官ヲ殺シ、社寺ヲ焼ク」との記述を始めとして、日ごとにその対応が記されてゐます。そして、乱の大詰めです。「寛永十五年二月一日、年寄武藏忍城主松平信綱、細川・鍋島ノ両軍ヲシテ、地道を鑿チテ、肥前原城址ノ城壁ヲ崩サシメントス、一揆ノ兵、亦、地ヲ掘リテ之ヲ防グ」。「十五日、是ヨリ先、年寄武藏忍城主松平信綱、隠密ヲ肥前原城址ニ入ラシム、是日、覚ラレテ、放逐サル」。そしてついに、「廿八日、肥前原城址陥落シ、肥後熊本城主細川忠利ノ臣陣佐左衛門、一揆ノ首領益田四郎時貞ヲ討取ル、年寄武藏忍城主松平信綱、捷(戦勝)ヲ江戸ニ報ズ」。最前線からの報告を受けてゐるといふ生々しさが感じられます。

さらに、『徳川實記』(第三編)を見てみました。『徳川實記』は、江戸幕府の手によつて編纂された史書ですが(一八〇九年~一八四三年)、主に幕府右筆所で作成されてゐた「日記」を典拠としてゐるため、より生身の声が聞こえてくる感じがします。

こちらでは、寛永一四年十一月九日から、“島原の乱”に関する記述が始まつてゐます。「九日、松倉長門守勝家所領肥前国島原にて、天主教を奉ずるもの、一揆をくはだて、松倉が城下の市井を放火し、有馬といへる所に楯籠りたる旨、豊後府内目付の輩より注進ありければ、云々」とありますが、ぼくが初めて知つたのは次の文面です。「この廿五年先に天草にて、この宗門を教諭したるしやびゑるといひし伴天連が、本国へ放ちかへされしとき、末鑑といふ書を残し留めたり、其書中に、今年より廿五年をへて、天より神童をくだし此教を再興すべし、:天草大矢野の庄屋益田甚兵衛が子四郎(時貞)といへる十六歳の童子、:これぞしやびゑるがいへる天より降せし神童なり」(以下戦ひの記事が続く)。

多少とも情報が集まつた段階でのまとまつた記述になつてゐます。それにしても、あのザビエルが天草四郎を予言してゐたといふ、これは風聞なんでせうか、それとも『末鑑』といふ書がほんとにあつて、それに記されてゐるんでせうか。いづれにせよ、これらは、あくまでも幕府側の報告です。服部さんは「天草の乱を一揆の視点から書いた絶対のおすすめ本です」とおつしやつてゐます。どう展開するのか、それと、幕府側の記録とどのやうに整合性を保ちながら物語がすすめられていくのか、期待してしまひます。

 

さて、その『出星前夜』ですが、そこでは、一揆の原因は、領主松倉家の不当な搾取、住民の「限界の二倍を超える苛政」が原因であつたと述べられてゐます。それまでもたびたびなされた抗議や年貢に応じない者に対しては、「藩吏に楯突く者は棄教を拒否するキリシタンであるとの口実のもとに、片っ端から煮えたぎる硫黄泉の中へ放り込んできた」と考へられるとの主張です。つまり、キリシタンだから弾圧したんではなく、自らの苛政が公にならないやうに口封じや見せしめとして行はれたといふのです。幕府の「キリシタン禁令」はそのためにうまく利用されたんですね。

ぼくなんか、キリシタンへの弾圧に対抗しての一揆をいうふうに漠然と思つてゐたんですけれど、不当な年貢への抵抗といふことが、その底流にはあつたと考へるべきなんですね。でも、それだけではないやうな気がします。先が楽しみです。

 

今日の写真:我が家のベランダに休みにくるやうになつた二匹の野良猫。