正月廿六日(日)丁酉(旧十二月廿六日) 曇りのち晴れ、一時小雨冷たい風が吹く 

やつと、『方丈記』が読み終りました。先月二十七日から読みはじめましたから、ちやうどひと月かかつてしまひました。速読ばやりのやうですが、やはり古典は時間をかけて読みたいし、また読み流してしまへるものでもありません。

『方丈記』は特に有名ですし、小冊子ですから、誰もがすぐに手に取つて読むことができます。手もとにある文庫本だけでみても、岩波、角川、講談社、旺文社、それに専門的ですが、古典文庫まであります。この古典文庫版は『方丈記五種』と題されてゐるやうに、五つの本文が載せられてゐます。これを見ると、『方丈記』が書かれてから、いろいろな伝はれ方をしてきたことがよくわかります。片仮名本、平仮名本、それに眞名(漢文)本まであります。みな写し伝へられてきた本です。

ぼくが今日読み終はつたのは、平仮名本ですが、これは「嵯峨本」と呼ばれてゐます。実は、影印本ではあるんですが、写本ではなく、活字本なんです。かの有名な本阿弥光悦が、当時、活字印刷が盛んだつたこともあつて、趣味を同じくする友人たちへの贈呈本として出版されたのです。徳川家康や板倉勝重、織田有楽齋などにさしあげたといはれてゐます。

それで、問題なのは、伝へられてきた過程で、解釈の仕方なんでせうか、それぞれ本文が微妙に異なるのです。参考に、「大福光寺本」と呼ばれる最もオーソドックスな写本を用ゐてる、旺文社文庫(これは対訳なので、意味もすぐわかる!)を開いて比べたのですが、たくさんの“異同”がありました。が、それはそれで興味深いものです。きつと、読んだ,或は写した人たちの人生観や歴史観が反映されてゐるんだらうと思ふのですが、そこは素人の浅はかさ、面白がつて終はりにしました。

さあ、次は何にしようかと考へ、あれこれ手もとの影印本を眺めまはした結果、芭蕉の紀行文集にしました。『天理図書館 善本叢書 芭蕉紀行文集』といふ重たい本があるんです。芭蕉自筆の影印本です。それを順番にと思ひ、夕方近くのファミリーマートにコピーをしに行きました。今日は、「野ざらし紀行」と「加島詣」だけにして、帰宅したところ、おや、ラムが、ぼくのベッドの上にあがつて横になつてゐるではありませんか。

ぼくは、そのとき、ああ、もう死期を感じてゐるのかなあと思つてしまひました。普段、いくらおいでとベッドに誘つても入つてこなかつたのです。息づかいが荒く、動悸も感じられます。飼ひ主に似てくるといひますが、そこまで真似なくてもいいのにと悲しくなりました。今晩は、一緒に寝てあげようと思ひます。

 

今日の写真:散歩風景(シェルティーと出会ふ。ぽっくり地蔵の前で)。ベッドに臥すラム。夕景色。