正月三日(金)甲戌(旧十二月三日) 晴れ 

朝食後、まづやるべきことは、「中仙道を歩く十一」の推敲でした。昨夜おそく、どうにか書き終へたのですが、今までの反省をこめていへば、必ずいくつかの間違ひや誤字があるのです。まあ、最低三度は読み返さなくてはなりません。

今回のテーマは、思ふに、たいへん重いものになつてしまひました。東山道と道祖神のことはいいにしても、『中山道 安中宿本陣文書』を手がかりにみた、皇女和宮さんの降嫁行列のことと、取り分け飯盛女と廃娼運動に関しては、書くだにため息が絶えませんでした。「負の歴史」を負はうとすれば、きつと避けることのできない定めなのでせう。そんな思ひをこめて、空メールを返してくださつた二十五名の方に、メールに添付してお送りしました。

それはさうと、昨夜ちよいと記したので思ひ出したんですが、ここで書いておかなければ忘れてしまふかも知れません。それは、花札好きの次郎吉おぢさんがゐなければ、ぼくは生まれてはゐなかつただらうといふことです。詳しくはわからないことも多いのですが、おぢさんがぼくの父の妹の道子おばさんと結婚したのは、おばさんが十八歳、おぢさんは三十四、五歳、それも十八歳になるまで待ちに待つての結婚だつたといふのですから、さうとうの熱のあげやうだつたのではないかと思はれます。おぢさんも情熱家だつたんです。ぼくは、その熱がさめたあとのおぢさんしか知らないのですが・・。

いや、そのおぢさんがです、戦前、勤めてゐたガス会社専属の床屋さんの奥さんの実家であつた、群馬県群馬郡群南村下瀧に疎開してゐたのです。そして、戦後、ぼくの父の相手を探すのを手伝つてだらうと思ふのですが、その床屋さんにも声をかけてゐたのです。そして、昭和二十一年のお正月、近所に住んでゐた、ぼくの母になる井田敏子が、それがまことに奇遇といふか、不思議なんですが、はじめてその床屋に行つたとき、東京の父のことを勧められたのです。母は田舎から出たかつたこともあつてか、即座に応へたやうなのです。そしてその二月二十二日に結婚。明くる年の同月二十三日にぼくが誕生したと、かういふわけなのであります。次郎吉おぢさんゐなくば、ぼくの存在なし、とはこのことです。そのおぢさんの葬儀に出られなかつたのは、ぼくの人生の汚点として、これからも輝くことでせう。

今年は本の購入を控へようかなと、密かに決心をしたのですが、決心よりも手を出すはうが早く、新年早々といふのに、ネットで注文した、中野三敏著『和本のすすめ』(岩波新書)が届いてしまつたのです。幸い、ぼくが直にポストから手にできたので、騒ぎにならなくてすみました。

いや、そんなことはどうでもいいのです。すごいのはその内容です。まづ、次の文を読んでください。「つい百年前までの自国の古典を、古典語のままでは読書人の一割に満たぬ数しか読めない、あるいは読まないで済むという現状は、かなり異常なことなのではなかろうか。」と、はじめからかうですよ! ついせんだつて、これ、ぼくもさう言ひましたよね? ところが、このセンセはさらに過激です。「小学校から英語を教えるという議論も仄聞する。それも結構だが、いっそそれくらいなら変体仮名を教えるべきかもしれぬ。(中略)本当に成熟した近代人を、さらには国際人を作るには、この辺り、何より大切なことではなかろうか。(中略) やはり読書人たるもの、自前で変体仮名の練習に励むしかないのではなかろうか。」 さあ、どうしませう。ぼくは思はず腹をまた二度三度と叩いてしまひました。

ぼくは、このやうなことにぶつかるたびに、ぼくのやつてきた学び方は間違つてはゐなかつたんだと、心から自信を持つてしまふのです。新年早々、何よりも増しておめでたいことです、と自分に言ひ聞かせてゐます。

新年二日三日といへば、箱根駅伝ですね。母校は五位でシード権を得たやうです。しかし、もう一つの母校は、ライスボールで、社会人チームに負けてしまひました。

 

今日の母の散歩:昨年夏に結婚した甥(母からいへば孫)夫婦とお花茶屋まで。

 

今日の写真:『安中宿本陣文書』。ラムとの散歩。野良猫。お土産の晩白柚(ばんぺいゆ?)と夕食後の団欒。