正月廿二日(水)癸巳(旧十二月廿二日) 晴れ 

今朝は、昨日より早く慈恵大病院に行き、ホルター心電図をはづしていただきました。いくら小型になつたとはいへ、マッチ箱ほどのものがみぞおち(鳩尾)を圧迫してゐるのは、気持ちのいいものではありません。はづされてほつとした、その勢ひで、街はまだ始動しはじめたばかりですから、いつもとは別の方角をとり、さう、愛宕山に上つてみたのです。

現在では、高いビルにに取り巻かれて、その存在感は霞んでしまつてゐますが、愛宕山は、江戸を語るのに忘れてはならない存在です。近くは、大正十四年(一九二五年)に日本初の放送局(NHK)が建てられ、ラヂオ放送が開始されたその発祥地なんです。

それと、有名なのが、馬術の名手、曲垣平九郎(まがきへいくろう)ではないでせうか。寛永十一年(一六三四年)一月のこと、騎乗のまま、この石段を駆け上がつてはまた駆け下りる技を披露して、将軍家光に誉められたといふ、その曰くつきの石段が、正面に立ちはだかる男坂です。

今朝は、その男坂を正面から攻めてみました。振り仰ぐやうな高さですよ。なにせ病持ちですから、一段一段、息を整へながら、ゆつくりと足を運びました。十段上がつては休み、二十段上がつては休みして、上り詰めたところは八十五段ありました。振り返ると、まるで谷底をのぞき込むやうです。すると、下から、一段おきに駆け上がつてくる青年がゐるではありませんか。ああ、羨ましいと、この時ばかりは思はざるを得ませんでした。

頂上には、といつても、海抜二十九メートルしかないんですが、愛宕神社の社殿は工事中、右手には大きな池があります。そこに、また、蜀山人(太田南畝さん)の名が刻まれた「狂歌」の石碑が建つてゐました。石段の上からは、遠くビルの間に、さきほどまでゐた慈恵大病院のおほきな渡り廊下(通路)も見えました。

放送博物館はまだ開館前でしたので、背後のだらだら坂を下つて、虎の門方面への道路に出ました。地下鉄虎の門駅近くにあつた、最近はやりのおおきな珈琲店で一休み。持参した、萩原進著『碓氷峠』を一時間ばかり読みました。

さあ、銀座“天龍”が待つてゐます。もう、食べ始めてから四十五、六年にならうといふ餃子なんですが、最近ご無沙汰してゐたので、禁断症状が出かかつてゐたのです。今日の外出(通院)は「公務」です。堂々と食べに行けるのです。虎の門駅から銀座駅。たつた二駅。しかし、お昼にはまだちよつと早いんです。伊東屋でも行こうかと、松屋デパートの地下から出ようとしたら、何に? 今日から八階の催事場で古本市が開催されるとの案内です。これは無視できません。それほどおおきな古本市ではありませんでしたけれど、それでも控へめに、『成尋阿闍梨母集』の和綴じの影印本と『近世農村文書の読み方・調べ方』、それに、江川太郎左衛門建白書が記された『維新史料 上書』の三冊を求めました。もう、後ろ髪引かれることなく天龍へ邁進です。

 天龍の餃子は、食べればわかる美味しさです。写真を載せましたので、よだれを流してご覧くださいませ。めでたしめでたし。

 

 今日の写真:慈恵大病院。愛宕山にて。古本市会場。天龍のお店と餃子です。