正月十二日(日)癸未(旧十二月十二日) 晴れ 

昨晩、『十年日記(一九九二年~二〇〇一年)』を開いたら、やめられなくなつて、読み始めてしまひした。《伊豆の山暮し》を書くために、確認しておきたいことが、いくつも出てきたからです。

でも、読み始めたのは、伊豆の山に住みはじめる四月前の、一九九四年(平成六年・戌)一月からの部分です。それまでおよそ八年務めた仕事場から、いかに静かに旅立つか、その苦心の様子がいまさらながら脳裏によみがへつてきました。まだ住めるほどに出来上がつてゐないのに、横浜から駆けつけては何度も泊まつたこと。二月六日の『日記』には、「自分が出す音だけが響く静けさ。ストーブを焚き、(仕上がつたばかりの)畳の上で寝る」と記されてゐます。

ぼくは、焚火が好きで、それで山暮しをはじめたといつても過言ではありません。それで、なによりも早く薪ストーブを設置してほしいと、大工さんには伝へてゐたのです。まだ、窓が出来てゐないのですから、大工さんも止めたのですが、ぼくはストーブを焚き、その明かをぼんやりとながめながら、寝袋にくるまつて寝ました。至福の時でした。もちろん、ラムとの出会ひはずつとあとのことです。まさか、ラムと出会ふために伊豆に来たのだ、なんて思ひもしませんでした。

いや、こんな思ひ出話に浸つてゐるどころではありません。今朝の東京新聞の〈本音のコラム〉を読んで、ぼくは改めて真実を知る思ひでした。それは、山口二郎さんの文章「戦死者と英霊」です。山口さんの弟さんと面識があつたものですから、ことさら注目してゐたのですが、今朝のコラムは他人ごとではありませんでした。

首相が靖国神社に参拝し、その言ひ訳が、「英霊への尊崇の念を表した」といふのに対して、その英霊とは何か。どんな戦死者を思ひ浮かべて言つてゐるのか。「英雄のイメージでとらえることは大間違いである。」として、山口さんはさらに言ひます。「アジア太平洋戦争で戦没した日本軍人約二百三十万人のうち、六割以上の百四十万人前後が戦闘行動による戦死ではなく、餓死もしくは飢餓による病死であった。食糧も薬品もなく前線に投入された兵士は、何と戦っているのか意味もわからず、無念の死を遂げた。(中略)非業の死を遂げた兵士を等し並みに英霊扱いすることは、むしろ死者を冒することである。」 その通りであるとぼくも断固として言ひたいと思ひます。

実は、母がよく口にするのです。「相原の家の勝さんの兄は、大陸で病気で死んだんだ。戦ひで死んだんならまだ本望だらうけど、ろくな食べ物もなく、薬もなくて戦病死だつたんだよ。」相原といふのは、母の伯母の嫁ぎ先の家で、その息子ですから、母の従兄にあたる人です。その弟の勝さんは、だみ声で、よく「淳一は、何か~」なんてよくからまれたことがありました。

 いや、もつと悲惨なのは、妻の母方の伯母の連れあひです。ぼくも、戦死したことは聞いたことがありましたが、ある時、その真相を知つてたいへんショックでした。戦後、小さな木の箱を持つてきてくださる方がありました。あなたの夫は死んだ、これが遺骨代はりです、と差し出した箱の中身は小さな石ころでした。こんな事言へないのだがと、その人は、水も食べ物もなく餓死したこと、お互ひに死者を喰らつたかもしれない、そんな状況だつたと伝へたのです。伯母さんはその時から寝込んでしまはれたといひます。

 首相の言動は、このやうな「英霊」を、また新たにつくれるやうにしたい、靖国神社参拝はその証拠に他ならないとぼくは思ひます。

 午後は、勉強部屋の掃除と模様替へを行ひました。今日の写真はお休みにします。