十一月十七日(土)癸丑(舊十月十日) 

 

芦原伸著 『へるん先生の汽車旅行 小泉八雲と不思議の国・日本』 を讀みすすみました。そしてだんだん 小泉八雲の讀み方がわかつてきました。『骨董』 や 『怪談』 などの作品を讀むだけなら何も問題はありませんが、全集に含まれる、日本に關する最初の著書である 『日本瞥見記(知られざる日本の面影)』(一八九四年出版) などを讀むには、明治二十三年(一八九〇年)四月、へるん先生が横濱港に着いてからの日本における足跡を知つておいたはうがいいであらうといふことです。 

そのやうな意味で、本書はとてもわかりやすい道案内と言つてもいいでせう。それにしても、ぼくもへるん先生の來日後の行動を知らなさすぎてゐました。 

 

同年八月下旬、横濱驛(現在の櫻木町驛)から赴任地の松江に向かつたこと。それには、通譯兼案内人のアキラをともなつてゐたこと。 

へるん先生が乘つた東海道本線が全線開業したのは、一年前であつたこと。 

松江の尋常中學校に英語敎師のポストがあいたのは偶然であつたこと。 

へるん先生は、四十歳のルポライターにすぎず、政府から招聘された正式な“お雇い外国人”ではなく、“押しかけ者”、むしろ“経済難民”でしかなかつたにもかかはらず、「迎へた島根縣側からすれば、文部省から推薦された英国人で、待遇は“お雇い外国人”と同じだった」といふこと。 

それと、宿泊は「西洋ふうのホテルを嫌い、あくまで日本宿にこだわった」こと。 

へるん先生は、「幼いときからキリスト教に精神的外傷を抱いてきた自分と、今まさに列強によって強引に変容させられようとしている日本人の姿が、ハーンの心の中で重な」り、「八百万の神々がおわす、神話の息づく出雲の国こそ、ハーンにとっては救いだった」こと。 

さらに、小泉セツとの結婚について、「行き場をなくしてハーンが日本に来たとするならば、セツはハーンよりも行き場がなかった」こと、しかも、「日本語が読めないハーンにとって利発な彼女は、著作活動においても貴重なパートナーとなり得た」といふこと。 

などがわかりました。 

 

ぼくの手もとにあるのは、今から六年前、神保町の小宮山書店で求めた、平井呈一譯、没後60周年記念出版の、『全訳 小泉八雲作品集』 全十二卷のうちの、五卷から十二卷まで、日本に來て、日本について書かれたもののすべてです。今、やつと讀破にむけてのスタートラインに立つたところ、と言つたらいいでせうか。

 

また、『へるん先生の汽車旅行』 を讀んでゐて、ぼくもへるん先生巡禮の旅をしたくなりました。まあ、それだけ、横濱から松江、松江から熊本、熊本から神戸、或ひは焼津など、日本のあちこちを、すでに天涯孤獨でもなく、“元祖バックパッカー”でもなくなつたはづなのに、渡り歩いてゐるんですよね!

 

今日の寫眞・・・小泉八雲とセツの有名な寫眞。

それと、今日、岡山の森口君から届いた干し柿。手作りのやうで、とても美味しい。すぐ禮状を書いて出す。