十一月廿日(火)丙辰(舊十月十五日) 晴、一時曇天

 

昨日の疲れを休めながら、和本の整理を續行。といつても、かくべつな分類わけをするわけではなく、強いて言へば、一般書と佛敎書を區別するくらゐでせうか。主眼は、著作年順に並べることにあるのですが、それが難しい。著作年(又は刊行年)を調べたくても、いつ書かれたのか、あるいはいつ刊行されたのかがよくわからないものが多いのです。 

 

(ダムめぐりのつづき) 

上から見るとサキソフォンのやうな變つた形をした合角ダムですが、おにぎりを食べたら、心は次のダムへ飛んでしまひ、バスを二時間も待つよりはと、タクシーを呼びました。小鹿野役場まで行けばバスがあるだらうとの考へでしたが、着いてみたらバスは數分前に出てしまひ、一時間待たなければなりませんでした。

 

しかたなく待ちました。幸ひに賣店があつたので、地元の婦人が作つたといふかりんとうを買つて食べて待ちました。やみつきになる美味しさだといふので求めたのでしたが、それほどでもありませんでした。 

また、ベンチに座つたら、となりのおじさんが話しかけてきて、聞いてゐたら、高崎の母の生家で祖父や伯父さんたちが喋つてゐた言葉づかひが思ひ出されて、ここでも心が遠~くに引き込まれていくやうな不思議な體驗をしました。秩父と群馬の南部は同じ文化圏なのかも知れません。

 

やつてきたのは、しかし、バスといふよりマイクロバスのやうな中型の、しかも中古車にもないやうな古びたバスでした。やはりぼくたち二人だけで出發。途中二、三人乘り降りがありましたが、これは生活道路を通るバスなので、病院通ひのおばあちやんにはとても親切でした。道はくねくね、觀光バスでは絶對通らない道を、地元優先のバスが走つてゐることになんだか感激してしまひました。 

 

次は浦山ダムです。西武秩父驛から向ふ豫定で、そのつもりでバスにゆられてゐたら、山間から平地への縁にやつてきたとき、開けた平地の向かひに、削り取られてぶざまな姿をさらしてゐる武甲山が見えたと思つたら、その右手の谷あひに、なんと浦山ダムが見えるではありませんか。思はず川野さんに大きな聲をかけてしまひました。人家といふか市街地にこれほど近いところにあつてもいいのかと疑問に思ふくらゐの場所です。

 

西武秩父驛に着いたらすぐタクシーで向かひました。薄暗くなり、天氣豫報通りの天候になつてきたので、急ぐことにしたのです。今度は、ダムの上まで一氣に上つてもらひました。 

いやあ、近づくにしたがつて、その異樣な大きさといふか高さに、先ほど見てきた合角ダムがおもちやのやに思ひかへされました。 

高い。合角ダムが60・9メートルなのにたいして、こちらは156メートルもあります。約三倍の高さです。すぐ目の前に人家が廣がつてゐます。さらに水平線をながむれば、奥秩父の山々と思ひきや、遠くに見えるのが赤城山であるとの表示にはびつくりしてしまひました。ダムはほぼ眞北に面してゐるので、その線上に母の生家があると言つてもいいので、さらに驚きました。生家の正面に秩父の山々が見えるので、ここがその山々なのだと、今はじめてわかりました。 

水量もこちらのはうが多いのでせう。でも、景色だけを見るなら、合角ダムのはうが風情があつたなと思ひました。

 

歸りに事務所に寄り、「ダムカード」をいただきました。これで、合角ダムと浦山ダムの二枚になりました。あと、二瀬ダムと滝沢ダムをあはせれば、特別なカードがいただけるんですよとタクシーの運ちやんが言つてゐました。それでは、あと二か所を訪ねてみようかとふと思ひました。

 

歸路は徒歩です。くねくねした道路をくだり、もうぢき浦山口驛だといふところで、西武秩父驛行のバスがやつてきたのでこれはしめたと思ひましたが、バス停が見あたりません。バスは通り過ぎ、バス停を見つけたら次のバスはここでも一時間待ち。秩父鉄道浦山口驛まで歩き、ほつとして時刻表を見たら、なんとここでも一時間待ちでありことがわかりました。が、もう腹を据えて待つことにしました。 

おかげで、不動の名水を飲むことができましたし、ホームから、いま下つてきたダムが眺められたのにはびつくり。今日のびつくりづくめの〆でした。

 

終點の羽生驛で餃子と中華そばを食べ、ここで川野さんとはお別れしました。ぼくは、特急で北千住驛へ向ふことにしたからです。その北千住驛には午後八時四二分着。長くも充實した一日でした。歸宅してみると、それでも一八八〇〇歩でした。 

川野さん、ありがたうございました。 

 

今日の寫眞・・・バスから見えた浦山ダムと武甲山。ダムから見た市街地と遠くに赤城山。さいごは、浦山口驛から見えたダム!