十一月廿九日(木)乙丑(舊十月廿二日) 曇り

 

今日は休息日にして、横になつて 『伊那の中路 眞澄遊覽記』 を讀み進みました。 

當時は白井秀雄と名のつてゐた菅江眞澄は、天明三年(一七八三年)二月、三十歳にして、故郷の三河吉田(豊橋市)をあとに旅立ち、三河路から三州街道を經て信濃路に入りました。三月半ばには飯田の宿に到着。そこで通り過ぎてきた浪合に思ひを馳せて、南北朝時代の尹良親王の遺徳を偲んでをります。

 

三州街道は、天龍川にそつて北上しますが、それは、天龍川に注ぐ支流を渡り渡りして進む街道でありまして、眞澄は、馬とともに流された子どもが、馬だけはどうにか岸にあがりますが、子どもは遠江に流されたのではと懸念する人びとの話を傳へてゐます。 

この地の産業である養蚕や田植ゑの樣子も詳しく記したりしながら、山吹(高森町)を過ぎ、片桐(中川村)では、「人に憑いて、物怪となつて人を狂わせる」くだ狐の話を傳へ、七久保の里では眞澄の故郷を訪ねたことのあるといふ醫者に迎へられたりと、どこででもこころよく迎へられてゐます。眞澄といふ人はよほど人當たりの良い、好人物だつたやうです。

 

今日讀んだところは、〈初期中仙道を歩く〉の旅でぼくも訪れた、三州街道の小野宿にいたり、そのまま鹽尻に至つてゐます。が、さらに桔梗が原を樂しんだかとおもふと、洗馬宿を左に見て、大池村まで足をのばしてゐるんです。大池村とは、現在の東筑摩郡山形村で、篠ノ井線の西、野麦街道の南にあたる地域です。まさかと思ふくらゐすごい距離を一日で歩き通してゐるんですから、なんといふ健脚なんだらうと思はざるを得ません。まあ、だからこそできた「遊覧」の旅だつたのでせけれど、記してゐる記事もけつこう面白いのです。 

 

今日の寫眞・・・もどされた紅葉と楓。すでに飼はれてゐた猫とうまくいかなくて、飼ひ主は泣く泣く手放したやうです。でも、ほんとうに人になれてゐるので、すぐに次の飼ひ主は見つかることでせう。それまでは、ぼくもお相手してあげようかと思ひます。