十一月廿一日(水)丁巳(舊十月十四日) 

 

中津文彦著 『天明の密偵 小説・菅江眞澄』 を讀み進みました。手にとつたきつかけは、和本の整理を行つてゐたら、中から 『伊那の中路 眞澄遊覽記』 と 『二葉紀行 白井秀雄手寫』 といふ、變體假名の和本が出てきたからでした。これらはいつかはと思つて購入しておいたものですが、やつと日の目を見たことになります。

 

とくに、『二葉紀行』 のはうは、ただ變體假名だからといふだけで求めたものですが、この 『天明の密偵』 によつて、眞澄は本名が白井秀雄といふ名前であることがわかり、その若き日の秀雄の「手寫」本といふことなので、これはとても貴重なのかも知れません。しかもどなたかが贈呈された、帙入り本ですから、ますます氣になりますねえ。

 

それで調べてみたら、本書の見返しに、「烏丸儀同公 御作」とあり、さら本文の冒頭に、「吾妻路往返記行 御詠の有處斗を寫ス」とあるので、これは、白井秀雄が國學や和歌を學んでゐたときに、「細川幽斎から古今伝授を受け、歌学・歌道の復興に力を注」いだ烏丸光廣の本を書寫(「手寫」)したものではないかと推測いたしました。 

たしかに、烏丸光廣には、『あづまの道の記』 といふ著書がありますので、これを寫したのでせう。見ることができれば確かめてみたいです。 

 

註・・・菅江真澄は、江戸時代の宝暦4年(1754)、三河国(愛知県東部)に生まれました。 

30歳ころに故郷の三河を離れ信濃国に旅立ちました。そのあと、越後から庄内を経て秋田に入り、津軽、南部(岩手県)、仙台、蝦夷地(えぞち・北海道)、下北半島などをめぐりました。48歳のときに津軽を経て再び秋田へ入ってからは、亡くなるまで秋田領内を離れることはなく、今の秋田県内のほとんどの市町村に足跡をしるしています。 

文政12(1829)7月19日、真澄は仙北郡で亡くなり、久保田(今の秋田市中心部)郊外の寺内村に葬られました。生前親しかった人たちも年齢をはっきり知らなかったためか、墓碑には七十六、七歳と刻まれています。 

真澄は旅をしながら 『菅江真澄遊覧記』 と総称される旅日記を書いたほか、随筆や秋田藩の地誌なども著しました。200冊以上に及ぶ著作のうち7712帖が国の重要文化財に指定され、近世の歴史民俗を記録した第一級の資料として高く評価されています。 

 

註・・・烏丸光広(からすまるみつひろ) (15791638) 江戸初期の公家・歌人。法名、泰翁。権大納言。細川幽斎から古今伝授を受け、歌学・歌道の復興に力を注ぐとともに、狂歌・俳諧・書道にも通じ、また仮名草子を著したとも伝えられる。著「耳底記にていき」「黄葉和歌集」「あづまの道の記」など。 

 

川野さんに敎へていただいた、塙保己一の講演會を調べたら、十二月九日に日比谷圖書館文化館で行はれることがわかり、電話してみたら、そのまま受講の豫約がとれました。 

この講座は、《古書で紐解く近現代史セミナー第32回 番町とともに歩んだ塙保己一 ~『群書類従』を編纂した大国学者の足跡~》 といふもので、講座内容もけつこう盛りだくさんです。よい復習になればいいと思ひます。 

 

今日の寫眞・・・『伊那の中路 眞澄遊覽記』 と 『二葉紀行 白井秀雄手寫』 

それと、〈ためしてガッテン〉を見た妻が、即座に買ひ求めてきたえごまあぶら。なんだか毎日スプーン一杯飲ませられさうです!