十一月四日(日)庚子(舊九月廿七日) 雨のち曇天

 

朝目覺めると、下田は雨でした。踊り子號で歸る豫定でしたが、より早く出る普通電車と新幹線で、お晝には東京にもどり、そのまま高圓寺の古本市に向かひました。 

たいして期待はしてゐなかつたのですが、和本が何册か見つかりました。それがみな有名といふか歴史的・文學的にも貴重な本で、こんなに安く買つてしまつていいのだらうかと思ふくらゐでした。以下、その四册(今日の寫眞參照)。 

 

一、貝原益軒著 『大和俗訓』 宝永五年(一七〇八年)刊。江戸時代の朱子学者貝原益軒が七十九歳の時に著した教訓集。儒教に基づく献身と礼法とを俗語で綴り、万物の敬愛を学問の第一と説く。 

 

二、佚齋樗山(いつさいちよざん)著 『田舎荘子』 享保十二年(一七二七年)刊。談義本の嚆矢と言われる作品。内容は動植物の対話をもって、老荘思想を元に教訓を伝えるというもの。 

 

三、『温知政要』(おんちせいよう)は、享保十六年(一七三一年)、江戸時代の大名尾張藩第七代藩主徳川宗春(一六九六ー一七六四)によって記された政教書。尾張藩儒官深田慎斎宗信が添削している。 

宗春は、享保十五年(一七三〇年)十一月二十八日、尾張七代藩主となる。すぐに、この政治宣言の著述を表しはじめ、翌享保十六年(一七三一年)三月に脱稿。御手刷版は、享保十七年(一七三二年)に刷られ、主だった尾張藩士に配られている。書写版が出まわり、流行仕掛けたときに、京の出版所に依頼してあった普及版は、幕府京都所司代牧野英成の京都町奉行所によって、出版差止めとなる。宗春隠居謹慎後は、尾張藩内の御手刷版も回収処分されたために、現存数は少ないが、幾つかの御手刷版と写本が残されている。 

以下は、〈序〉を翻刻したもの。括弧はふりがな・送り假名。句讀點を付け加へました。 

 

往昔(イニシヘ)より国を治め、民を安(ん)するの道、仁に止る事なり。我武門貴族の家に生るといへとも、衆子の末席に列(り)、且、生質懶くして文學に闇く、何のわきまへもなかりし中に、謀(ハカラ)すも嫡家の正統を受繼(き)、過分の重職に備れり。熟し思ふに天下への忠誠を盡し、先祖の厚恩を報せん事、國を治め安くし臣民を撫育し子孫をして不義なからしむるより外あるまし故に、日夜慈悲愛憐の心を失ハす、萬事廉直にあらんか爲、思ふ事を其儘に、和字に書つけ、一卷の書として諸臣に附與す。是我本意を普く人に知らしめ、永く遂行ふへき誓約の證本なる故、正に上下和熟(カシユク)一致にあらんか爲云(シカ)々 

    享保十六辛亥三月中院 

        參議尾陽侯源宗春書 

 

尚、これを記した徳川宗春については、大石学編『規制緩和に挑んだ「名君」』(一九九六年・小学館) といふ書物が出てゐます。それにしても、「京都町奉行所によって、出版差止め」となつた書物と出會ふとは!

 

四、會澤正志齋著 『迪彜篇(てきいへん)』 天保十四年(一八四三年)成立。著者の会沢正志斎(一七八二~一八六三)は、 江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は安(やすし)。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館総裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。『新論』 において、尊王・攘夷を鼓吹する。 

 

また、歸りの電車の中で、小松茂美著 『平家納経の世界』 讀了。後半は、自傳をかねた「古筆」研究の變遷でありまして、ぼくにはことさら興味深く、かつ勉強になりました。そのすばらしさといふかすごさ、脇目も振らずのめり込む研究態度には頭が下がる思ひがいたしました。特に、

 

「公私立の博物館・美術館、個人のコレクター所蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての歌切や歌論書などの古筆を集大成した 『古筆学大成』(全30巻、講談社、198993年) は、通常の個人研究の枠では計り知れないもので、小松の公私の人脈を駆使して成し遂げることが出来た空前絶後の偉業である。」

 

などと、「古筆」がどういふものであるかを知るものには、ただただ驚くべき業績としか言ふことができないでありませう。きつと、學閥やら學界に氣がねする必要のない立場にゐたからこそなしとげられ得たのだと思ひます。獨學の強さを感じます。

 

今日の寫眞・・・ぼくの大好きだつた下田驛の驛辧と、求めた和本四册