四月廿七日(木)甲申(舊四月二日 雨のち晴

 

今日の讀書・・夕べから、『寂聴と磨く「源氏力」全五十四帖一気読み!』(集英社新書) を讀みはじめ、今日一日でそれこそ一氣に讀み上げてしまひました。アマゾンのネットで二五八圓(本代一圓、送料二五七圓)で購入しました。それにしては面白い、といふよりよくわかりました。内容の複雑さ、筋の入り組んだ構造と人間関係など、やはりこのくらゐの知識は持つて讀んでしかるべきと思ひました。 

まあ、くづし字で讀むことが、ぼくの最大の目的ですから、中村眞一郎先生がおつしやられるやうに、「小説はなるべく一息に讀むべき藝術である」、と言はれても、さうはいきませんですね! 

 

《東京散歩》〈コース番號5〉「川邊散策」 (つづき)

 

トンボ鉛筆を過ぎると、正面には林立なのか、亂立なのか、まあ、大きなマンションの群れが行く道を遮るかのやうです! 

その豊島五丁目は、地圖で見ると、隅田川が東寄りに湾曲といふか蛇行した出つ張りの土地でありまして、原野だつたのか、工場地帶だつたのか、今は團地が犇めいてゐます。そこを、これから隅田川の堤防の上をぐるりと歩いていきます。

 

まづ、直行すれば豊島橋にいたる丁字路を左に曲がり、中學校と小學校を經て、正面の堤防まで進みます。そこからが眺めのよい土手、堤防の道です。ガイドブックには、「堤防沿いを歩くので眺望が開ける部分は少ない」とありますが、それは部分的にでせう、湾曲部分は最高の眺めであります。またそれはそれは遠回りでありますけれど、目的地をめざすといふよりは歩くのが目的ですから、眺望もよく、川風にふかれながらのすばらしい散歩道でありました。

 

地圖を見て不思議なのは、北區と足立區の境界線が、隅田川をはみ出して、この先端の部分だけが對岸を超えて荒川の中ほどまで出つ張つてゐることです。荒川は明治大正時代に開鑿された放水路ですから、それ以前なのか以後なのかはわかりませんが、隅田川が大きく蛇行してゐたときに定められた境界線がそのまま殘されてゐるわけで、行政もめんどうだらうなとよけいな心配をしてしまひました。 

その隅田川沿ひの頂點のあたりでせうか、川べりに四角いコンクリートの柱が立つてゐました。これは「舊豊島橋跡」の橋脚のやうです。

 

さういへば、『江戸名所圖會』 にこのあたりの繪圖があるのですが、位置關係があやふやではつきりしません。先ほどの「紀州明神社」はじめ、「淸光寺・若宮八幡宮・地藏堂」などが島のやうに點在して描かれてゐます。隅田川の流れが流動的だつたためでせうか、それとも一帯が低地、或いは沼地だつたからでせうか。 

トンボ鉛筆の先の曲がり角の丁字路を中心として、コンパスで圓を描くやうにして歩いてきましたら、そこに豊島橋がかかつてをりました。これを渡つて行くと荒川の江北橋に至ります。

 

が、さらに川沿ひを下るつもりで道路を渡りますと、いきなり土手がなくなり、コンクリートの堤防の下の路地を進むしかありませんでした。たしかに視界がふさがれ、眺望を期待できませんでした。それでも、左手には隅田川の流れを感じながら歩くと、寛永・享保年間の石佛が十八基現存する下道地藏堂に出會ひました。『江戸名所圖會』 に記載されてゐる地藏堂でせう。 

つづいて、公園のやうな廣場のすみに、若宮八幡宮の小さくて貧弱な社が建つてをりまして、『江戸名所圖會』 に載るほどの名所もかくなるありさまかと、ちよいと寂しくなりました。(つづく) 

 

今日の寫眞・・堤防に突き當たつて上がつたところ。堤防側から見たマンションの群れ。「舊豊島橋跡」の橋脚。對岸は、「天狗の鼻」と呼ばれる隅田川の舊出つ張り。つづいて、新「豊島橋」。上を横切るのは中央環状線(C2)。おしまひの二枚は、『江戸名所圖會』 にも登場する地藏堂と若宮八幡宮。