十一月十九日(土)乙巳(舊十月廿日 雨のちやむ

 

今日の讀書・・今日は寒かつたので、子猫を抱いて讀書にひたりきりでした。その 『日本紀略』 ですが、今日も讀み進んだのはたつた一年分。應和三年(九六三年)だけでした。けれども、けつこう収穫がありました。 

その一つは、「御製」です。村上天皇ご自身が作られた詩歌なのでせう。ただ、數文字だけですから、部分なのか、これで全文なのか。あるいは、これは題で、作られた本文は別にあるのかは分かりません 

 

二月三日丙戌 御製。庭花曉欲開。 

三月八日庚申 御製。風來花自舞。 

四月廿六日丁未 御製。風雲夏景新。 

五月五日丙辰 御製。採菖蒲詩。

十月四日壬申 御製。菊花色淺深。無風葉自飛。 

 

以上ですが、漢文記の返り點がなくても意味は分かりますね。 

二つ目は、佛教界のことですが、對照的な出來事が起こつてゐます。 

 

八月廿一日庚子 自今日、於清涼殿、被轉讀法華經。讀經終、南北二京僧論議。 

 

清涼殿で法華經の轉讀がはじまりました。五日間行はれます。これは明らかに鎭護國家佛敎としての儀式でありまして、「南北」とありますから、南都北嶺、奈良興福寺と比叡山延暦寺のお偉いさんが集まつての盛大な儀式が取り行はれた模様であります。ちやうど、『扶桑略記』がありますので、横において参照しましたところ、「天台南京各十人名徳」であります。 

ところが、そこで「論議」が起こつたのであります。『扶桑略記』によりますと、法華經の奥義である 「一切衆生悉有佛性」 について、決擇(決着)をつけようと、天台宗の良源さんと法相宗の法藏さんが論議し、結果、良源さんのはうが勝つたやうです。が、曖昧な議論に終始したやうです。 

といふのは、一切衆生に佛性がそなはつてをり、だれでも成佛できるならば、もはや貴族宗教たる南都北嶺の役割はなく、佛教は民衆の宗教となつてしまふからなのでありました。 

もう、今日的には當然のはなしなのですけれど、體制維持派にとつてはれてはならない一線であつたのでありますね。とまあ、體制派としてのメンツにかけてのやりとりだつたのですが、そのやうな國家行事としての儀式が行はれてゐた一方で・・・。

 

 同八月廿三日壬寅 空也聖人、鴨河東岸建堂。供養金字大般若經。道俗集會。請僧六百人。有舞音樂。 

 

反體制派とでも言へる空也聖人が、鴨の河原で大供養。お堂まで建てて、道俗みな集まつて大騒ぎ、ではない、嬉し樂しの大舞! 「一切衆生悉有佛性」 を地で行つてゐます。これこそ民衆の宗教でありませうね。 

さう、もう一つありました。 

 

同八月廿日己亥 第一廣平親王加元服。于時十四。敘三品。 

 

廣平親王の元服の記事です。この親王は、村上天皇の「第一」子であるにもかかはらず、藤原師輔の娘安子が生んだ第二子憲平親王を皇太子とされてしまひ、天皇になりそこなつたのでした。嘆き悲しんだのは、祖父の藤原元方でした。望んでゐた外祖父になれず、これを機に、失意のうちに亡くなつたのでありました。 

 

*補注一・・「空也(くうや)」 (903972) 〔「こうや」とも〕 平安中期の僧。天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが不明。常に市中に立って庶民に念仏をすすめ、貴賤を問わず幅広い帰依者を得て、阿弥陀の聖・市の聖と尊称された。諸国を巡って、道路をひらき橋を架けるなど社会事業に尽くした。京都に疫病が流行したときに西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立して、平癒を祈った。

 

*補注二・・「藤原元方」 天慶5年(942年)従三位・中納言。 

娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、天暦4年(950年)に第一皇子・広平親王を生んだことから重用され、天暦5年(951年)には正三位・大納言に進み、左右大臣に並んでいた藤原実頼・師輔兄弟、その従兄弟の大納言・藤原顕忠に次ぐ地位に昇る。しかし、広平親王と同い年で、藤原師輔の娘である中宮・安子所生の第二皇子・憲平親王(冷泉天皇)が、師輔の権勢により生後2ヶ月で皇太子に立てられ、広平親王の将来は閉ざされた。このことに対し元方は深く失望し、その余り病を得て悶死したとされる。時に天暦7年(953年)321日、享年66 

後代、元方は怨霊となって師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫にまで祟ったと噂された。とりわけ、冷泉天皇の精神病や三条天皇の眼病の際には、その影響が人々に意識されたという。 

 

今日の寫眞・・空也上人像と空也の先達、行基さんの像。詳しくは、我が 『歴史紀行八 平城京編三 行基紀行』参照。それと、空也さんの連本。