六月二日(土)乙丑(舊四月十九日) 曇りのち晴

 

『枕草子』 を讀みつづけました。もつとも、はじめから順番に讀む必要がないことが分かつたので、『枕草子のたくらみ』 の「第五章 季節に寄せる思い」であげられた章段を讀んだついでに、季節を感じさせる章段をまとめて讀むことにしました。ところが意外に少ないのでありますね。 

すでに読んだ八七段以降から抜き出したところ、全三二三段のうち、表題を見てかつてに選んだだけですが、およそ二十段しかありません。「春はあけぼの」ではじまる 『枕草子』 ですから、もつと多いといふか、ほとんどが季節感あふれた随筆かと思つてゐた先入が吹き飛ばされた思ひです。

 

それにしても、『枕草子』、能因本をくづし字で讀みながら、參考に、底本に三卷本を用ゐてゐる「新潮日本古典集成」を使用してゐるのですが、同じ章段でも、言葉の使ひ方や文意のニュアンスがあまりにも異なることに驚いてしまひます。 

昨日讀んでわかつた、「ほぼ一〇〇パーセント原典に遡源し得た」といふ、『土佐日記』 とは雲泥の差です。まあ、人氣があつて、あちこちで讀まれては寫本が作られたので、原典に遡及することがより難しいことになってゐるのでありませう。同情はしますが、諸本によつて章段が違ふことも含めて、もうちよつとどうにかならないものでせうか。これでは、能因本を讀んだからと言つて、『枕草子』 を讀んだことにはならないなんて言はれかねません! 

 

さて、日大のアメフト部の騒ぎは、結局はメクラマシだつたに違ひない。國會で何が起こつてゐるか、何が問題かの情報は限られ、首相が語つた、航空母艦を作りたいなどといふとんでもない發言にたいしても、批判もされなければ報道もなし。 

自民党と公明党に票を投じてゐる國民のうちの多くが同調し、賛成してゐるからとしか考へられません。かうなれば戰前とまつたく同じです。あとからだまされたとか、仕方がながなかつたとか、「一億総懺悔」してゐましたけれど、すべては後の祭りです。かうして、美しい日本の國の伝統も誇りも再び地に落ちていくのでありませう。