六月廿二日(金)乙酉(舊五月九日) 曇天のち晴 

 

今日も外出。一應散歩のためですが、行つた先は神保町と五反田の二か所でした。 

今日の東京古書會館は〈新興古書大即売展〉で、和本が會場の半ばを占めてゐました。けれど、高價なものばかりなのと、ぼくの現在の關心にかみあふものがなく、早稻田通りの五十嵐書店さんのコーナーを訪ねたら、そこには目當てのものがありました。勉誠社文庫と和泉書院影印叢刊がたくさん出てゐて、そのなかから、『伝後伏見院宸翰仮名書き 観無量寿経・阿弥陀経』 と 『御物本 増鏡 上中下』、それに、『舞の本 和田酒盛・夜討曽我』 と 『七夕・鶴のさうし』 でした。『觀無量壽經』 と 『阿彌陀經』 なんんて、淨土三部經のうちの二經典ですよ。それが「仮名書き」で大きな文字なので、どうにか讀めさうです。 

それと、同じ五十嵐書店さんに、昨日雑司ヶ谷靈園でお墓參りした、綱島梁川の關連本があつたので求めました。川合道雄著『綱島梁川の宗教と文芸』(新教出版社) といふ本です。なにせ、岩波文庫で出てゐる 『綱島梁川集』 を、何度も讀もうとしては挫折してきたので、關心だけはもちつづけたいと思つたからです。

 

また、五反田の西部古書會館では、〈五反田古書展〉が開催中。そこでは、ぼくの大好きな角川文庫の舊版がまとめてあつたので、數册求めました。そのうちの一册は、夏目漱石の 『思ひ出す事など』 です。昨日お墓まゐりができた記念にですが、歸りの電車の中で、その中に、同じくお墓參りした、ケーベルについて書いた、「ケーベル先生」と「ケーベル先生の告別」があつたので讀んでみました。大昔に讀んだと思ふのですが、あらためて讀んで、あまり面白くありませんでした。といふか、讀みやすい文章ではありません。一九一一年(明治四十四年)七月に漱石がケーベル先生の自宅を訪ねた思ひ出と、日本を離れるといふ先生に最後のあいさつをしに行つたときの文章です。 

その「ケーベル先生の告別」を書いたのは、一九一四年(大正三年)八月で、それは、哲學や美學や音樂の敎師を退職した先生が歸國するさいの「告別」のあいさつでした。漱石は文末で、「多くの人々に代つて、先生に恙(つつが)なき航海と、かな生とを、心から祈るのである」、と書いてゐます。 

ところが、「横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。その後は1923年(大正12年)(ぼくの母が生まれた年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。墓地は雑司ヶ谷霊園にあるが、ロシア正教からカトリックに改宗して生涯を終えた」、といふのです。これで、ケーベルが日本で亡くなられた經緯がわかりました。 

漱石が没したのは、一九一六年(大正五年)、ぼくの父が生まれた年ですが、「ケーベル先生の告別」を書いた一九一四年(大正三年)からわづか二年。享年四十九歳でした。ケーベル先生は、漱石より早く生まれて、漱石よりも長生きしたことになります。ケーベル先生、「大好きな日本の學生」だつた漱石のお墓參りしたでせうか。 

 

註・・綱島梁川(つなしまりょうせん) (18731907) 哲学者・評論家。岡山県生まれ。本名、栄一郎。東京専門学校卒。終生病身で療養しながら思想・宗教を論じ、次第に神秘的宗教思想に傾いた。著「病閒録」など。 

「神に憧れ神に恋した人、そしてやがてその恋を得た喜びと共に、短い生涯を終えた人」(川合道雄談) 

 

今日の寫眞・・綱島梁川と夏目漱石とケーベルと、それに、大正時代の日本基督教会の指導者であり、キリスト教史学者・思想家、文明評論家であつた柏井園(18701920)の墓。