六月十九日(火)壬午(舊五月六日) 晴たり曇つたり

 

『枕草子』、八三段(能因本では九一段)「職の御曹司におはしますころ、西の廂に」の長い章段を讀み上げました。ところが、山本淳子先生がご説明くださつてゐるやうにはどうしても讀めないのであります。といふか、わからないのであります。ちよいとついていけてゐないのかも知れません。それで、他のテクストを開いてみました。

 

くづし字の原文は、『枕草子能因本 上下』(笠間影印叢刊) を讀み、參考書には、『日本古典文學全集』(小學館) と 『新潮日本古典集成』(新潮社) を用ゐてゐますが、これらだけではよくわからなかつたので、手持ちの文庫本を出してきて見くらべてみました。 

下の(・・)は、「職の御曹司におはしますころ、西の廂に」の章段番號です。揃ひもそろつてみな異なつてゐるといふことはどういふことなんでせう、と言ひたくなりますが、それは押さえて、まづは、ざつと讀みくらべました。 

岩波文庫(八七段)以外はすべて現代語譯がありました。角川文庫(八五段)、講談社文庫(七四段)に、講談社学術文庫(八二段)、旺文社文庫(八三段)の四種です。

 

讀んでみましたところ、角川文庫の現代語譯が抜群でした。物語として、言葉がこなれてゐて、語られてゐる内容がようくわかるだけでなく、言葉を讀むといふ快感が感じられました。これは、ぼくに言はせれば、稀有のことですね。譯注は、松浦貞俊さんと石田穣二さんです。そもそもくらべて讀むなんてことはほとんどしたことがないので、新鮮な試みでありました。現代語で讀むならば、この譯注者の角川文庫をお薦めしたい。

 

それで、この章段の問題點は、十二月十日過ぎの頃に庭に降り積もつた雪で、雪山を作り、それが、正月十五日まで解けないで殘つてゐるかどうか、といふ賭けを、淸少納言と定子さんがしたといふことです。なぜこんな賭けをしたのか、といふこともぼくはよくわかりませんが、それよりも、はたして正月十五日まで殘つてゐた雪山を、その前夜に、定子さんが侍の者どもに取り捨てさせたといふことです。 

淸少納言は、當然殘つてゐると思つてゐた雪山が、翌日、そつくり消えてゐるのを見てがつくりします。それを見て、定子さんは、自分が捨てさせたのだ、賭けはあなたの勝よといつて慰めるのですが、どうもしつくりしないエンディングです。

 

それが、淳子先生がおつしやる「秘事」とどのやうな關係があるのかがちつともわかりません。ただ、雪山が解けないまま年を越え、その正月三日には定子さんが天皇のおそばへむかはれて、そこで當然「合體」がおこなはれ、その結果、「十カ月後、定子による天皇の第一皇子・敦康親王出産という快挙」が實現するといふことを言ひたいのなら、それはそれでわかりますけれど、なぜ雪山であり、賭けがなされたのかがわかりません。 

角川文庫の [評」 によれば、この章段のはなしは、「この一時期の定子の後宮日記になつている」と書かれてあります。それが淸少納言の目的であつたことはたしかでせう。ところが、講談社学術文庫では、諸説を援用して、なぜ定子が雪を取り去つたのか、それは、淸少納言が賭けに勝つて得意となり、女房たちから顰蹙を買ひ、孤立するのを防いだ中宮の思ひやりのある處斷だつたといふのです。 

それでも、なほ、「淸少納言にとってどうしても書かずにいられなかった、天皇と中宮の秘密の逢瀬だつた」といふ理由がしつくりきません。ぼくのあたまが錆びてきたのでせうか? 

 

さう、忘れてはならないのが、登場人物です。多彩です。まづ、「老いたる女の法師」。「これが果して衣と言えようかと思われるような、同じようによごれたしろものを着て、まるで猿のような恰好をしたのが」、「仏樣のお供えのおさがり」を求めて、職の御曹司にやつてきたこと。また、女房たちとの、「まあいやらしいと皆笑」ふやうな會話が面白い。 

それと、もう少し上品な「尼姿の乞食」。「これは大層殊勝げに小さくなっていてかわいそうなので、例によって着物一枚を中宮がお下げわたしになったのを、拝領してうれし泣きに泣いて喜んで帰った」といふはなし。 

さらに、職の御曹司に仕へる「木守(植木番)」とか、「すまし(樋洗)」とか、「長女(おさめ)」とかが登場して、この章段が生き生きとしてゐます。ただ面白く作られた話ではありません。さう、今までの章段のなかで、最も豊かな内容だと思ひます。