六月廿日(水)癸未(舊五月七日・上弦) 小雨降つたりやんだり

 

今日は、山本淳子著 『枕草子のたくらみ』 の、「第一三章 漢学のときめき」と、「第一四章 試練」と、 「第一五章 下衆とえせ者」の三章を讀みました。

 

第一三章が取り上げた本文は、第二八〇段(能因本二七八、角川文庫二八八)「雪いと高く降りたるを、例ならず御格子まゐりて」と、第一三一段(能一四〇、角一三五)「五月ばかり、月もなういと暗きに」の二段でした。 

この章では、淸少納言の漢學の素養のかさが話題。敎へられたのは、紫式部が教養の正しさや深さといつたことに價値をおいてゐたのにたいして、淸少納言はコミュニケーションツールとしての敎養を評價してゐたと言ふご指摘でした。この違ひがあつたから、紫式部は 『紫式部日記』 のなかで淸少納言を激しく批判したのであります。 

 

第一四章が取り上げた本文は、第六段(能六、角六)「大進生昌(だいじんなりまさ)が家に」の一段のみ。長保元年(九九九年)八月九日、正月の一條天皇との逢經て、妊娠七カ月をむかへた定子さん、出産にむけて、職の御曹司から、平生昌の家へ移ります。が、それは道長のいやがらせとしか思はれない仕打ちでした。この屈辱的な住まひでの生活は、長保二年(二〇〇〇年)十二月十六日に定子さんが亡くなるまでつづきます。しかし、淸少納言は屈辱に耐へ、たたかつて定子さんを支へるのでありました。 

 

第一五章が取り上げた本文は、十段もありました。まづ、章段番号だけ記します。「角」とあるのは角川文庫のことで、讀めば内容がすんなりわかるやうな現代語譯なので、くづし字本文とともに讀みました。 

第四三段(能五二、角四三)、第二一八段(能二一〇、角二二四)、第五五段(能五九、角五五)、第二九四段(能二九三、角三〇二)、第九五段(能一〇四、角九七)、第一二一段(能一二九、角一二三)、第二八六段(能二八六、角二四四)、第一一八段(能一二六、角一二〇)、第一〇五段(能三二〇、角一〇七)、第一五〇段(能一六〇、角一五四)、以上の十段でした。 

この章は、淸少納言のプライドについて。「下衆(げす)」や「えせ者」を見下すやうなかずかずの發言のうらには、淸少納言自身が、定子の前では輝くことができた自らを省みて、「人は所を得れば生きられる」といふことを訴へてゐるとのご指摘であります。ぼくは直接人を見下してゐるとは思ひませんが、「人は所を得れば生きられる」といふご指摘は、コミュニケーションツールとしての敎養を大事にした淸少納言ならではの發言であつて、まさに現代的な、といふか時代を超越した眞理を語つてゐるやうに思ひます。 

 

それと今日は、横になりながら、『目なし草 一休水鏡注全』 の長い〈序〉を讀みました。文字が大きいので、一字一句讀めましたが、言はんとしてゐることがよくわかりません。例へば、「一休和尚、人の法にまどはんことをおそれて説かず、かへつて佛法くさきことをは、そしりたまふなり」、なんてことが書かれてあります。つづいて本文に入ります。 

 

今日の寫眞・・『枕草子』 文庫本各種。