五月廿五日(木)壬子(舊四月卅日 曇り時々小雨

 

今日は本番、《東山會 初夏の散策》 に行つてきました。リーダーと言つたらいいのか、幹事役と言つたらいいのか、參加者八名樣ご一行を引率して、どうにか無事に樂しい一日を過ごしてまゐりました。 

集合場所は、我が京成堀切菖蒲園驛。十時前にはみなさん到着し、點呼をとり、用意した資料をお配りして出發でありました。 

「堀切菖蒲園」。“菖蒲まつり”は三十日からですが、幸ひ、三日前よりも開花が進んでゐまして、落膽せずに見て回ることができたのは僥倖と言つてもいいでせう。

 

つづいて、京成八幡驛に向かひ、「八幡の藪知らず」 と 「葛飾八幡宮」 の大イチョウを見、休業中でしたが、一應、晩年の永井荷風が通ひつめた 「大黑家」 さんを訪ねました。そして、その 「荷風さん終焉の家」 を外から觀察。さらに、「白幡天神社」 では、幸田露伴と永井荷風の文学碑を見學しました。また、「幸田露伴終焉の地」 は、所番地だけの確認でした。露伴さんの面影もなにもない殺風景なアパートに變はつてゐました。 

曇つてゐるわりには蒸し暑くなつてきた街路をしばらく歩きましたが、中仙道にくらべれば、なんて誰が言ふともなく、お互ひに勵ましあふのがならひになつてをるのであります。 

晝食は、下見で確認した華屋與兵衞に入りました。格別美味しくはありませんが、不味くもないといつた、今日的大衆食堂といつたらいいでせうか。ぼくは、小天丼、税込み四二一圓でしたが、いい味してました。バカにしてはいけませんね。 

 

つづいて、櫻土手公園の 「文學の散歩道」 を通り、眞間川に突きあたつた道を、川に沿つて手兒奈橋を右折、「手兒奈靈堂」 に至りました。 

その謂はれについては、〈資料〉を見てもらふことにしまして、道路を隔てた龜井院にある「眞間の井」 も確認いたしました。 

 

資料・・手児奈(てこな)とは、下総国勝鹿(かつしか)の真間(現在の千葉県市川市)に奈良時代以前に住んでいたとされる女性の名前。「手古奈」、「手児名」などとも表記する。 

一つの説によると、手児奈は舒明天皇の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。しかし、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育ててつつ静かに暮らした。だが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江(現在の真間川付近に広がっていた)に入水したと伝えられている。古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、詩人たちの想像力をかきたてた。 

万葉集には高橋虫麻呂や山部赤人らによって詠われたこの伝説に関する歌が複数見られる。 

737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。 

上田秋成による『雨月物語』の一編「浅茅が宿」は同じく下総葛飾の真間を舞台とし、手児奈の伝説をベースとしている。 

 

下見では、ここから、郭沫若記念館と、下總國分寺趾と、下總國分尼寺跡と、じゅん菜池緑地公園を經て、北總線矢切驛に出たのですが、その間をショートカットいたしまして、バスで矢切までまゐりました。 

下矢切バス停で下車し、西へ向つて歩いていきましたら、矢切神社があり、曲がり角には、庚申塔が建つてゐました。 

その道路際に、「矢喰村庚申塚の由来」という石碑があつて、その碑文の中には、「(国府台合戦の災難による)苦しみから弓矢を呪うあまり『矢切り』、『矢切れ』、『矢喰い』の名が生まれ、親から子へ、子から孫に言い伝えられ、・・・」とありました(補足・・また、戰國時代に起きた第二次國府臺合戰にて、里見方が矢が切れて負けたことから「やきれ」→「やきり」→「やぎり」となった説があるさうです。これら合戰については、いつの日か詳しく調べたいところであります。はい)。 

その先からは下り坂になり、その途中に、伊藤左千夫の小説、『野菊の墓』 の一節を刻んだ、「野菊の墓文学碑」 がありました。ずいぶん前から知つてゐたのに、なんだかやつと訪ねることができたな、といふ氣分でした。ここでも、みなさんと記念寫眞を撮りました。 

ここからは、先日の下見通りに、「野菊のこみち」を、矢切の渡しまで歩きました。今日は餘裕がありました。息せき切ることもなく、翩翻と翻る「矢切渡し」の旗をめざして、畑のど眞ん中のこみちを進みました。 

 

「矢切の渡し」 には、もう何度乘つたことでせう。でも、乘るたびになにか鄕愁にかられるやうな感じがいいですね。今日は、船頭さんの愛犬なんでせうか、クマくんがそばから離れず、なでなでしてゐる間に渡りきつてしまひました。 

まるで貸し切りでしたが、みなさんのなかで初めて乘つたといふかたもをられたので、ぼくも幹事役として滿足でした。 

あとは、お決まりのコースで、寅さん記念館と山田洋次ミュージアムを見學し、山本亭を通り抜け、帝釋天は裏から境内へ入りました。 

そこで、あれ、と思ふ間もなく人の群が近づいてきて、帝釋天の奥座敷のやうな庭園(東京都指定名勝の邃渓園〈すいけいえん〉と言ふさうです) へ入つてゆかれたのですが、それが今訪ねてきたばかりの、山田洋次監督ご一行なのでした。咄嗟にカメラを向け、川野さんと競つて撮りましたが、さあ、できばえはどちらに軍配があがるでありませうか。 

 

參道をぶらりと歩き、結局、柴又驛前のやきとり屋で締めの會食をいたしました。ここまで、一九五九〇歩。二萬歩にあと一歩といふところでしたが、今日もよく歩きました。 

さう、次回は十一月、初めての一泊の旅です。さあ、これはこれは樂しみであります。 

柴又驛で、金町、北千住方面の方と、淺草橋、横濱方面の方と別れてそれぞれ歸路につきました。ちなみに、歸宅したならば、二〇八〇〇歩になつてゐました。 

 

今日の寫眞・・前半は後日にしまして、矢切の渡し。寅さん記念館と山田洋次ミュージアム。山田洋次監督ご一行。帝釋天境内。柴又驛前。完歩で乾杯!