五月九日(火)丙申(舊四月十四日 曇り

 

今日の讀書・・昨日病院で讀みはじめた、永井路子著『この世をば(上)』(新潮文庫) が實に面白い。面白くて、昨夜はついつい夜更ししてしまひました。まあ、『源氏物語』 の時代ですから、參考書としてもふさわしいでせう。それに何よりも、「歴史」の永井路子さんですからね、これは信頼がおけますです。 

それと、書庫をながめてゐたら、藤井貞和著『古典講読シリーズ 源氏物語』(岩波セミナーブックス) が目にとまつたので開いて見たら、これまたどんぴしゃり! 「本書は桐壷の卷だけを扱っている『源氏物語』の講座の記録です。」といふ本でありまして、學習院さくらアカデミー《源氏物語をよむ》 が、何を隠さう 〈桐壷〉 の卷だけの講義であることを思へば、これもまた最適の參考書といへるでせう。なにせ、これも八木書店の二階の廉価本のコーナーで三百圓で求めた本でありまして、値段的に輕いのでついつい書棚に埋もれてしまつてゐました。反省! 

 

さう、昨日病院で讀み終へた、『猿源氏草紙』(室町時代の作) ですが、これは讀み終へてみて、『和歌威德物語』(一六八九年出版) に先立つ、和歌の威德をたたへる物語で、その先驅的作品だと思ひました。 

『和歌威德物語』は、古典文庫で、くづし字のお勉強のために、ちやうど二年前に讀んだのですが、和歌が果たした歴史的役割といふか、人々の暮らしに多大な影響をおよぼしたかを、短編小説(ショートショート)風に物語つてゐる、ぼくにとつては歴史のお勉強にもなつた物語であります。 

それこそ切り分けて、和本風に卷ごとに綴じなおしたものはもう手放したことがないくらゐで、二年前には讀めなかつた文字が讀めるやうになつてゐることを確認するよすが(てがかり)にもなつてゐるぼくにとつては大切な本なのであります。 

 

で、『猿源氏草紙』 ですが、これは、もともとは「伊勢國阿漕が浦の鰯賣り」である主人公の猿源氏が、京都の五條の橋の上で、駕籠のすきまから垣間見た遊女が忘れられなくなり、義父の南阿弥(なあみ)の入地恵で、ある大名に化けて遊廓に入りこみます。 

ところが、その遊女・螢火(けいぐわ)とねんごろになつたはいいのですが、寢言であらぬことを喋りまくり、それを聞かれた螢火に正體がばれさうになるのですが、實はここからが本書の本筋でありまして、螢火が問ひただす一言ひとことを、和歌にたくして應へるのであります。曰く、「まづ、阿漕が浦の寢言はいかに」、「猿源氏といふ寢言はいかに」、と問ひただされるのですが、その答へのこめられた知識といふか和歌、連歌をはじめ、當時でいふ歴史的教養の深さと言ふか、これにはびつくりです。まあ、物語ではと言ふことにしておきますが、現代人は恥じるべきでせうね。

 

さて、このやうに難局をいくつも越えたすゑ、螢火また申すやうは、「それのみならず、『鰯買ふゑい』とのたまいし寢言は、いかが陳じ給ふべきぞや」 と言ひつつ、をかしさに、螢火、からからと笑ひければ、その時は、・・・すでに鰯賣り」であることを白状しかかるのですが、さらなる名答で螢火の信賴を得てしまふのであります。 

かくて、「螢火、その時思ふやう、まことの鰯賣りならば、かやうにさまざまの歌の道をば、よも知らじ、」ほんとうの大名に違ひないと「思ひ直して、たがひに下紐をうち解けて、比翼連理のかたらひ、淺からず見えにける」。 

と、かやうな大團圓で終結を迎へると思ひきや、さあ、ここから敎訓がはじまつて本當の終りに備へます。ここは、現代人には耳が痛いところでせうが、目を見開いて讀むべきところでせう。 

 

「これといふも、南阿弥に使はれ、つねに歌の道に心がけし故、當座の恥を隠すのみならず、及ばぬ戀の本意を遂げしこと、ひとへにもの知りたる威德なり。されば、孔子のいはく、『藏の内の財は朽つることあり、身の内の財は朽つることなし』とありしこと、今こそ思ひ知られけれ。さても、・・その後は、鰯賣りの名をあらはし給へども、高きも賤しきも、戀の道に隔てなければ、この世ならぬ契りなればとて、阿漕が浦へうち連れてくだりつつ、富み榮えて、子孫繁昌なりしも、たがひのこころざし深き故、また歌の道淺からざりし故なれば、かへすがへす、人ごとに學び給ふべきは、歌の道なるべし」。

 

さてまた、これで大團圓、と思ひきや、それにつけても、このやうに庶民にいたるまで育まれてきた歌の道が、明治期にいたり、子規によつて破壊されたことは悔しいばかりではなく、歴史の法廷があれば子規を告訴したいくらゐであります! 

とかなんとか、和歌の道のなんたるかをも知らず、俳句ひとつできないぼくが言ふことではないと思ひますが、なにも、それを子規の所爲(責任)にしてゐるわけではありません。はい。 

 

最近役に立つてゐる書物といへば、やはり八木書店の廉価本の中から掘り出した、『国文学複製翻刻書目総覧』(一〇〇〇圓。定價は一三〇〇〇圓です)ですね。日本古典文學會・貴重本刊行會が出したもので、この本には複製(影印)本と活字(翻刻)本の兩方が出てゐて、求める本がすぐわかるのです。 

例へば、『伊勢物語』とか、『源氏物語』であれば、何種類もの複製がありますから、東京堂などの新本屋に行つても購入できますが、『更級日記』や、『雨月物語』にも複製本があるのかないのか、どこから出てゐるのかが一目瞭然でわかるのです。 

昨日讀んだものですが、調べてみますと、「猿源氏草紙 (復=複製本)御伽草子(昭和47、三弥井書店) (活=飜刻・活字本)岩波文庫、日本古典文學全集、無理町時代物語集5、室町時代物語大成6、御伽草子(昭51、桜楓社)」とあり、一九八二年、事典とも言へるこの本の出版の時點で、ぼくが讀んだ本しか複製がないことがわかります。活字本も少ないですね。どうです! 

とにかく、足しげくして通つてみてはじめてこのやうな便利な書物に出會へるのであります。健康とお財布、萬歳! 

 

ところで、今日の體調ですが、咳はまだとれませんが、咳止めの藥をやめたせいか、だいぶ樂になつてきました。いただいた吸引器も、緊急用はちよいと危険を感じたので、通常用のはうを一日一回ためすことにしました。で、ちよいと長文の讀書感想を書くこともできました。 

 

今日の寫眞・・別册に切り分けた、『和歌威德物語』(古典文庫)。くづし字學習には最適です。つづいて、『国文学複製翻刻書目総覧』。 

そして、今日の「東京新聞」の新聞の切り抜き。いや、誰かさんのやうに、「改憲を巡る自身の見解について『読売新聞を熟読してほしい』」なんて、國會の席においてお喋りになれる、それは國權たる最高機關をないがしろにした、思ひ上がつた輕薄な本音からしか出てこないことばでせうが、新聞の切り抜きをここに載せてゐるのは、そんなたわけではないぼくの辯解を附記いたしますです。ねえ、ここは國會ではないからいいでせう?