五月廿九日(月)丙辰(舊五月四日 晴

 

今日の讀書・・讀書の本道は、寢轉んではゐられないのがつらいと書きましたが、それで、昨晩から、杉本苑子著『散華 紫式部の生涯』(中公文庫) を讀みはじめました。上下卷本で、橫になつて讀むには、一册一册がたいへん厚いのですが、そこは好奇心と探究欲のなせる技です。 

なんて、「紫式部が 『源氏物語』 の作者ではあり得ない」 とおつしやる藤本泉さんの主張に賛成しておきながら、かういふ主題の本を讀むのはどうなのか、と考へないわけではありませんが、今のぼくは暗中模索ですから、眞實にたどりつくためには、双方からのご意見を聞いておかなければなりませんのです。 

 

それで、今日の本道ですが、昨日につづいて、『日本紀略』 天禄三年(九七二年)の一年間分を讀み進みました。たつた二頁ですが、そこには、「今日、狐百餘頭陣内で鳴く。」とか、「屋上に人の行く足音有り、これを探つたけれど、人は無く、仍てこれを占はしめる。」とか、「禁中に羽蟻が生じ、仍てこれを占はしめる。」とか、「侍従所の南の庭の櫻の木が、風もないのに倒れた。仍て御占ひ有り。」とかの出來事がつづきました。占ひによつて原因を探らうといふところに注目ですね。まだ、安倍晴明さんは登場してをりませんが、陰陽寮の活躍が期待されてゐた時代なのであります。 

さうかと思へば、「廿日、阿闍梨元果が神泉苑において請雨經法を行つた。 廿八日、神泉苑における御修法結願の間、風も無いのに南門が倒れ落ちて大雨が降る。效驗有り。」といふ出來事もありました。

 

それと忘れてならないのは、「大宰權帥源朝臣高明が大宰府より歸洛する。」といふ、氣になる記事が目につきました。安和二年(九六九年)三月のでつちあげ事件で大宰府に流された源高明さんが許されて歸洛できたわけは、一つには、菅原道眞さんのやうに怨靈になられてはたいへんなので、早々に解放したといふことがあるでせう。それに、高明さんの娘が天皇の妃になる可能性もなくなりましたからね。 

ところで、この高明さんのもうひとりの娘明子は、藤原道長の妻のひとりで、だいぶ大切にされたさうです。永井路子さんの受け賣りですけれど、ちよいと道長を見直した點です。 

 

源高明さんは、けれども、歸洛後は鳴かず飛ばずの状態でして、心の中では、藤原氏に對する憎しみは消えることはなかつたでせう。そこで、藤本泉さんのお考へです(『歴史推理 王朝才女の謎 《紫式部複数説》』 より)。

 

 『源氏物語』 の真の作者は誰なのか。その第一候補に、源高明をあげたい。 

一、文才・学識があり宮廷の儀式に詳しい。 

一、安和の変で、藤原氏にいためつけられ、その怨みから(藤原氏をおとしめる内容の)『源氏物語』 をひそかに書く動機がある。また、子孫がその意志をくんで、次つぎ各巻を書き加えたことも考えられる。 」 

と、まあ、だいたいこんなところでいいでせう。ぼくもさう思ひたい推理であります。 

 

さうさう、槇野廣造著『平安朝日記』 のはうは、同じ年の内容の二十頁ほどを讀みました。今日のところは引用が多く、『徒然草』 の第十九段は復刻で讀み、空也については、『空也誄』 と 『千載和歌集』 と 『古今著聞集』。この年に亡くなつた藤原伊尹については、『榮華物語』 と、『古事談』 と、『宇治拾遺物語』、そして、伊尹が遺した歌集、『一條攝政御集』 を一應繙きました。歌集はすでに複製を讀んでゐますが、あらためて開いたらちんぷんかんぷん! まあ、こんなものでせう。

 

なんで數頁しか讀めなかつたかといふと、實は、先週診ていただいた齒が縱に割れてしまひ、齒ぐきの痛みが時を經るにしたがつてましてきて、夕食時には口を開けるのにも痛い思ひをするやうな状態だつたからです。 

ところが、その近所の齒醫者さん、一週間先生が留守をするといふのです。急遽、以前診ていただいてゐた慈恵醫大病院に電話して、明日診てもらへることを確認しました。 

 

今日の寫眞・・東山會 初夏の散策》の前半。二十五日現在の「堀切菖蒲園」、「八幡の藪知らず」、「葛飾八幡宮」の大イチョウ、そして、「手兒奈靈堂」にてです。