九月三日(水)丁丑(舊八月十日) 曇り

 

昨日紹介した、愛ちやん(よつちやん)の言葉は重いですね。一晩たつてますますさう思ひます。それは、「言語の伝統を疎かにするのは、本当に大罪です。古典と歴史を馬鹿にすると、思想も人間関係も軽薄になるからです。」といふ言葉です。傳統を疎かにし、傳統から切り離されるといふことは、それは根なし草になることだとぼくは思ひます。つまり、自分のアイデンティティが失はれることです。

アイデンティティが失はれたことは、おそらく、みな感じてゐるんでせうね。それで改めて探してるんでせうけれど、それは、個々人でなされるには、ぼくは限界があると思つてゐます。そこに、家族や祖先の敎へ、といふか「絆」があつたはづなんですが、それが失はれつつありますし、ましてや、公教育といふものの大切さがあると思ふんですが、それが極めて危ふい況にあるわけです!

ぼくは、そのことに、この歳になつてやつと氣がついたのです。氣がついたかぎり、これは國家存亡に關はることですから、黙つてゐては罪です! それで、いささか騒いでゐるわけなんですが、無視されるといふのはつらいです。でも、それにめげてゐてはならないと自分を叱咤激勵してゐるわけなんでありますです。はい。

愛ちやんが日本にゐないのは殘念です、といふか我が國の損失です。鰻丼や天ぷらやお壽司やすき燒きをご馳走するから歸つてきてくれないでせうか? 

 

ところで、今日から「所沢古本まつり」がはじまつたんです。迷つてゐたんですが、妻がこころよく送りだしてくれました。東京の東から西へ向かふので、ちよつと遠いのですが、掘り出し物を得るためには勞力をケチつてはなりません。

いや、求めた本はわづかでしたが、刺激されるものはたくさんたくさんありました。中仙道の旅はもちろん、歴史書をめぐる旅はまだまだ續きます。そのためにはまだ人生をリタイアするわけにはいかんと、自分に言ひ聞かせました。 

 

今日の寫眞:くすのきホール八階の古本市會場と古本市で目と心にとまつた本二册。

 


コメント: 0