九月十五日(月)己丑(舊八月廿二日) 晴れのち曇り

 

今月の「中仙道を歩く」は、下諏訪宿から贄川宿まで、約三十キロ、二泊三日の行程です。すでに、次週に迫りました。それなりに調べるところがボチボチ出はじめました。そこで氣づいたのが、明治天皇の巡幸です。

ある參考書に、贄川宿手前の櫻澤といふ間の宿で、明治天皇がお休みになつたとふのですが、續いて、「この巡幸のとき、久米邦武が記録した『東海東山巡幸日記』によると、巡幸の一行は・・・」、なんて書いてあつたんです。考へてみれば、天皇巡幸の記があつてもいいはづでしたね。

いやあ、これは原文を見なければいかんと思ひ立つたはいいのですけれど、ネットで調べてみると、目の玉が飛び出すほどの値段です。そこで、やはりネットで檢索したら、葛飾區立中央圖書館にはありませんでしたが、東京都立中央圖書館にはあることがわかりました。

思ひ立つたが吉日ですからね、すぐ有栖川公園内にある圖書館を訪ねました。書庫から出していただいて見ましたら、「巡幸の一行」が木曾街道を通られたのは、明治十三年、六度目の巡幸のときで、「甲信・伊勢」を巡つたやうなのです。このときの書記が、かの有名な久米邦武だつたのです。岩倉使節團に同行して、『特命全權大使 米歐回覽實記』を書いたその人です。“久米邦武筆禍事件”を引き起こした人でもあります。避けては通れない人物だと思ひます。

ところで、中仙道では、ところどころに「明治天皇行在所跡」といふところがあつて、必ず碑が建つてゐました。ところが、追分宿で、北國街道と分かれてからは、ぼくの記憶では下諏訪宿まで見あたらなかつたと思ふのです。そこで調べてみました。すると、明治天皇の巡幸は、明治元年からはじまつて、明治十四年まで、七度にわたつて行なはれてゐることがわかりました。その五度目、明治十一年、上信越・北陸を巡つたときに、中仙道を通りましたが、追分宿からは北國街道を通られて、北陸方面へ向かはれました。ですから、追分宿から、下諏訪宿までの中仙道は通られなかつたんですね。

そして六度目の巡幸で、木曾街道を通られたのでした。たしかに、下諏訪宿本陣にも「明治天皇下諏訪御小休所」碑がありました。つまり、東京から、甲州街道を通られて、下諏訪に出、松本まで足をのばした後に、鹽尻までもどり、、櫻澤、贄川、そして木曾街道を南下されたわけなのです。この「記録」を利用しない手はないですよね。七十六枚もコピーしてしまひました!

でも、なんでまた「巡幸」などしたんでせうかね。これはまた別の問題ですが、ぼくは、岩倉具視はじめ、西郷隆盛、木戸孝充、山形有朋、大隈重信、井上馨などが、それぞれ供奉したことをおもんばかると、自づと答へも出てくるのではないかと思ひます。なんとまあめんどうな時代だつたのでせう。

それと、今度、目黒驛前にある“久米美術館”に行つてみようかなと思ひました。 

 

今日の寫眞:下諏訪宿本陣「明治天皇下諏訪御小休所」碑。コピーしたての『東海東山巡幸日記』。それと、廣尾の不思議な景色の數々。

 




コメント: 2
  • #2

    ひげじゅん (金曜日, 17 7月 2015 19:59)

    はじめまして。ひげです。どこのどなたかわかりませんが、お便りくださつて、ありがたうございます。
    また、記述が役立つてよかつたです。よろしかつたら、『歴史紀行 中仙道を歩く』を、メールに添付してお送りすることもできます。2013年正月に歩きはじめた中仙道、この6月で滋賀縣の愛知川宿までやつてきました。28册目となりました。
    押しつけですが、連絡くだされば、最新號をおくりますよ。
    では、おやすみなさいませ。ありがたうございました。ひげ

  • #1

    杉井籟士 (金曜日, 17 7月 2015 18:00)

    児玉幸多:中山道を歩くの文中に久米邦武は怪しげな伝聞について
    一刀両断に「其妄弁スルニ足ラズ」と小気味よく切り捨てている様子です。久米氏の著作のいずこに出ているのか気になっておりましたが、
    ソウスを垣間見た気持です。ありがとうございました。