八月廿四日(日)丁卯(舊七月廿九日) 晴れのちくもり

 

「中仙道を歩く」第十八回の寫眞の整理と加工を續けました。そして、甲斐さんと川野さんの分をお送りしました。それと、ちよいと疑問に思つたことがあつたので、中仙道(の下諏訪宿まで)と甲州街道を完歩された、〈史策會〉の森さんと甲斐さんに以下のやうな文面でお聞きしました。 

 

おはようございます。實は、お聞きしたいことがあります。

それは、下諏訪宿に着いて、とくに、甲州街道と合流したところで思つたことですが、はたして、中仙道と甲州街道とではどちらが歩きやすいのだらうか、といふことです。

中仙道は、碓氷峠も和田峠もあるでせう。ぼくは、甲州街道のはうがより樂で安全だつたのではないかと思ふのですが、實際に歩き通された森さんと甲斐さんに、歩かれた實感といふか感想をお聞きしたいのです。

追分宿から下諏訪宿までは、必要な道ではあつたでせうが、街道でなくても差しさはりはなかつたんではないか。木曾方面からきて、下諏訪宿を經て、甲州街道を通るはうが、或はその逆のはうが、より合理的だと思ふのですが。それとも、江戸幕府にとつて、碓氷峠と和田峠を越える中仙道にしなければならなかつた何か理由があつたのでせうか? 

何か參考書があるかと思ふのですが、それよりも、歩かれた生の感想をお聞きしたいと思ひます。よろしくお願ひします。 ひげ 

 

まだ、お返事はないのですが、どんな感想がかへつてくるか樂しみです。

 

ところで、この際ですので、もう一度、浅田次郎センセの、『一路』を讀んでみました。和田峠を越える場面です。

「下諏訪宿を立つと中山道はしばらくの間、山あいの坂道となり、やがて西餅屋と呼ばれる峠の茶屋を経て、一気に和田峠の登りへとかかる。そして、その先の山道は曲がることがない。棒を立てたような道をまっすぐに攀じ登り、また転げ落つるように下る。山があまりに険しく、なおかつ長丁場であるがために、道の付けようがほかにないのである」。

この通り間違ひありませんでした。もつとも、ぼくたちはそこを下つたわけですが、ほんとうにまつすぐなんです。甲斐さんなんて、ここを上るのだけはごめんだね、と言つてましたもんね!

たびたび引用して恐縮ですが、貝原益軒さんが、和田峠の「坂長し、東坂はやすらかにして、西坂はけはし」と言ふ通り、下諏訪宿側の峠の傾斜の「けはし」さは、ちよつと形容のしやうがありません。

 

今日の寫眞:①峠から下諏訪宿への下り口、②もうすぐ西餅屋茶屋跡へ着くといふ下り坂。以上の二枚は、いはゆる登山道であるならばなんてことはない坂道です。けれど、この道は街道であり、いはば一級國道なんです。人ばかりではなく、荷物を載せた馬や牛、はたまた大名行列などの駕篭が通つたんですね。もう少し整へられてゐたとしても、「道というより壁のような急勾配」はいかんともしがたいものがあつたでせう。タイムマシンがあつたら、当時の人たちがどのやうに行き來してゐたのか自分の眼で見てみたいものです。③川野さんがスマホで撮つて送つてくれた、浪人塚での寫眞です。

 


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