八月廿二日(金)乙丑(舊七月廿七日) 晴れ

 

夕べはまゐりました。碓氷峠を越えたあと、食事がのどを通らなかつたのとまつたく同じでした。ただ、夕べは席には着いて、お喋りしながらグラスの梅酒とジンジャエール、それと最後の水菓子だけをどうにか口にしました。それにしても、見てゐると、みなさんお元気といふか、あまり疲れてゐないのか、よく食べてをられるのにはびつくりです。

部屋は、甲斐さんと川野さんと三人一緒でした。ぼくは夜中に目が覺めたので、もう一度温泉に入りにいきました。誰もをらず、ひとりどゆつくり湯につかり、そして出たところに自動販賣機があつたので、アイスクリームとプリンを食べました。

それで、今朝はすつきり、バイキングの朝食もたつぷりと美味しくいただけました。 

 

さうです、忘れるところでした。昨晩夕食後、諏訪湖で花火があがつたんです。短時間でしたが、よく見えました。寫眞で撮るコツをつかんだので、何枚も撮つてみました。それと、ついでに屋上から眺めてゐたら、遠く小さく、ライトアップされた高島城を見つけたんです。

高島城は、實は、訪ねたかつたのです。でも時間的にも、氣持ち的にも餘裕がなくてあきらめてゐたんですが、思はぬ發見といふか、幸運でした。だつて、かつて、『歴史紀行九 赤穂浪士引揚げの道』を歩いて、泉岳寺を訪ねたときに、ぼくは言ふました。いや、このことは、『中仙道を歩く(十八)』本文の中で紹介しませう。 

 

さて、「中仙道を歩く」第十八回の二日目です。昨日到着した西餅屋跡までバスでもどり、體操ののち出發しました。今日は一路下り道です。しかし、たやすくはありませんでした。國道を歩くことが多く、また激しい日差しのために體力はすぐ消耗していきました。

でも、山のあひだから木曾の山々が、そして諏訪湖が見えてきたときは感動的でした。またふりむくと、越してきた和田峠が遙に望めました!

ぴりつとしたのは「浪人塚」でした。元治元年(一八六四年)、上京する天狗黨と、幕府の命令を受けた高島・松本兩藩と激戰がおこなはれたところで、その天狗黨の水戸の浪士十數人の死者が葬られ、その死を悼んだ碑が建つてゐました。

面白かつたのは御柱の「木落し坂」でした。諏訪大社下社の春宮と秋宮もよかつた。また、春宮の裏手に坐した、「萬治の石佛」が何とも不思議な造形美でしたね!

そして、甲州街道とぶつかったところでは、甲斐さんにおめでたうと言葉をかけました。甲斐さんは、すでに甲州街道を完歩されてゐて、江戸からの兩街道の歩みが、ここで圓くつながつたからでした。

中仙道をもう少し進み、町の中にある“食祭館”がゴール。午後一二時五〇分到着、歩いた距離は約一〇キロ、一八八四〇歩でした。そしてそこで食事をして、そのまま歸路につくので、甲斐さんと美味しいビールを飮んで、バスに乘り込みました。

出發は一三時四〇分、談合坂に立ち寄りましたが、それでも豫定より早く、新宿には午後四時三七分に、上野には五時二五分の到着でした。

今回はとくに疑問に思ひました。それは、ほんとうにこんな道を、いや街道を江戸時代の人は通つたのでせうか? あまりにも嶮しく細く、雨が降つたらそのまま澤になつてしまふやうなんです。これは、浅田次郎センセイの『一路』を再讀してみる必要がありさうです。

もうひとつ、歩く歩幅です。ちよいと聲をかけて聞いたご婦人の歩數は、ぼくの歩數に比べてかなり多かつたのです。それで、歩く時氣をつけて見てゐたら、歩幅をせまく、ちよこちよこと歩いてゐるんです。さういへば、山では、ゆつくりと歩幅をちいさくして歩くといいよといふ話を聞きかじつたことがありました。でも、ぼくはせつかちだから、早く早くと歩幅を廣くして歩いて、それで疲勞も多いのかも知れません。歩數も多くなるし、疲れも少なくなるならと、意識してちよこちよこと歩かうとしましたが、だめ、いつの間にか早足になつてゐるんです。性格なんでせうね、あきらめました。

 

  今日の寫眞:①買ひ求めた黒耀石、まるでガラス片、②山道で拾つた鹿の角、③諏訪湖の花火、④高島城夜間遠望、⑤浪人塚、萬治の石佛、⑦甲州道中中山道合流之地碑、⑧歸路、富士山に向かふ。





コメント: 0