八月卅一日(日)甲戌(舊八月七日) 曇天、一時晴れ

 

『歴史紀行三十二 中仙道を歩く(十八)』が仕上がりました。最後は、ふーふー言つてしまひましたが、どうにか書き上げ、さらに、鐵は熱いうちに打てですからね、パワーポイント版(册子版)作成にもとりかかりました。

また、今號は、四十四名の方々にメール添付でお送りしました。一人でも二人でも樂しんで下されば望外の幸せです。なんて、ほんとは、みなさんに讀んでいただきたいんですけれどね。假名遣ひが「正假名」でせう、漢字が「正字」でせう、みなさん敬遠されてゐると思ふんですよね。でも、これは、ぼくの流儀であるといふだけでなく、日本の歴史や古典とつながる貴重なる絆なんです。ですから、誰が何て言はうと變へるつもりはありませんからね。それは、今や自分の人生を生きることと同義なんです。ちよつと大きく出過ぎたかもしれませんが、たまには本音を言ひたいです! 

 

“夜のピクニック”、妻の提案で、二千歩ぐらいにしようといふので、気樂に出かけました。前から氣になつてゐた、「西龜有せせらぎ公園」を訪ねることにしたのです。でも、まつすぐに行つて歸つてくるだけではつまらないので、これも氣になつてゐた、以前は川(または用水路)だつた跡をたどつてみることにしました。東綾瀨小學校まではいつもの道ですが、その先から「青葉ふれあい通り」がはじまつてゐるんです。明らかに川が流れてゐた跡です。どんな道なのか興味津々です。が、案の定弧を描くやうにして、青葉中學をかすめ、龜有方面へ曲がつていきました。

でも、この川跡には、橋があつたあとを示す例の親柱はひとつもありませんでした。それほど大きな川ではなかつたのかも知れません。ここぞと思ふところを途中で右折、右に曲がると、目當ての公園がありました。ところが、一つの公園ではなくて、いくつも連らなつてゐるやうなんです。藤塚西公園からはじまつて、西龜有せせらぎ公園が細長く續き、ぶつかつたら左右に廣がり、その先きにはさらに中道公園がありました。残念ながら水は流れてゐませんでした。

歸り道は、知らない通りばかりを選んで歩いてきましたら、昔、同潤會と呼ばれた裕福な方々が住んでゐた場所にでたのです。そして、ふと大きな和風の立派な家を見て、ぼくは、はつとしました。その家は、ぼくが中學一年生のときに擔任をしてくださつた三橋先生の家だつたんです。それで、結局、五九六〇歩でした。 

 

今日の寫眞:①青葉ふれあい通り。②③せせらぎ公園。④三橋先生の家と、⑤中學校入學式、前列真ん中が三橋先生。女先生でした。

 



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