十一月廿二日(水)癸丑(舊十月五日 晴のち曇天、寒い

 

今日の讀書・・今日は我が書齋で 『日本紀略』 を讀み進みました。「日本紀略後篇十二』 の全文で、 一條天皇が崩御され、三條天皇が践祚した、寛弘八年(一〇一一年)七月あたりから、三條天皇が位を後一條天皇に譲るまでの四年半を、一氣に讀んでしまひました。ですから 『大日本史料』 も、『御堂關白記』 も 『權記』 もほとんど見ずに、まづ目を通してみました。

 

この間に、三條天皇の父、冷泉上皇が崩御されてゐます。調べたら、この天皇陵もいいかげんで、「中世以降、所在不明。明治二十二年に現地に考定された」と、『歴代天皇・年号事典』 に記されてをりました。かうしてみると、『日本書紀』 の天皇の陵がほとんどでたらめなのははつきりしましたけれど、以後、平安時代の天皇陵も曖昧なままに、明治時代に國策によつて決められたことがわかつてきました。

 

それと、三條天皇は、践祚したとき、すでに三十六歳。娍子さんとのあひだに男四人女二人のお子たちがゐました。ところが、道長は、娘の研子を差出し、すぐに中宮にしたのです。中宮にするなら、娍子さんのはうが先でせうに。無理やりに押し通して三條天皇を困らせ、いじわるしつづけ、たうとう失明するまでに追ひ込んで譲位を迫つたのでありますね。 

また、これらの意地惡には、取り卷きの公卿らのおもねりや忖度がはたらいてをり、今日の政治状況を見てゐるやうで、讀んでゐて胸糞が惡くなりました。 

しかも、惡いことに、これもなにやら陰謀臭いのですが、在位中に二回も「内裏焼亡」をくり返してゐるんですね。踏んだり蹴つたりで、心の休まる時のない三條さんだつたと思ひました。

 

とは言つても、 『日本紀略』 だけでは、そこまで讀み取ることはできません。趣向を變へて、土田直鎭著 『王朝貴族』(日本の歴史5 中公文庫) と、古瀬奈津子著 『攝關政治』(シリーズ日本古代史6 岩波新書)、それと、難しいので今まで手を出せないでゐた 『小右記』 を何ヶ所か開いて學ばせていただきました。 

ともかく寒い一日で、モモタとココを抱きながら、まるまつての讀書でした。

 

今日の寫眞・・先月十月二十五日に訪ねた冷泉天皇陵と、二十六日訪ねた三條天皇陵。 それと、參考にした二册。