十一月廿三日(木)甲寅(舊十月六日 雨のち晴

 

今日の讀書・・今日も 『日本紀略』 を讀み進みました。『日本紀略』 が記録する最後の後一條天皇の時代に入りまして、十二頁、長和五年(一〇一六年)二月から、寛仁二年(一〇一八年)十二月までです。いはば、この時期は、藤原道長がその榮華を極めた時代で、ここそこにその横柄なといふか力を誇示した行動が見てとれます。 

昨日から讀み進んでゐる、古瀬奈津子著 『攝關政治』 によれば、道長は限りなく「天皇に近づく」道を歩み、天皇を拜礼する位置から、「拜礼を受ける側」に身を置くやうになつてきたやうです。有名な、「望月の歌」もこの時期に詠まれました。

 

「寛仁二年十月十六日 女御從一位藤原威子ヲ以テ、皇后ト爲ス」

 

つまり、皇太后宮彰子さんの妹の威子さんが、お姉さんの息子の後一條に嫁ぎ、さらに皇后(中宮)になつた、その祝ひの席のことです。ここは、藤原實資の日記、『小右記』 の本文を引用しておきます(古瀬奈津子著『攝關政治』からの孫引き)。

 

「皆酔って盃を勧めようにも通る道がない有様である。・・・道長は私を招いて、『和歌を詠もうと思う。必ず和してほしい』 と言った。私が 『どうして和さないことがありましょうか』 と答えると、道長は、『得意そうな歌なのだが。ただし、用意しておいたものではない』 と言った。そして詠んだ歌が、『此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば』 であった」

 

藤原實資は、「他の公卿たちが道長の歓心を買うために」なりふり構はずだつたのと比べ、表立つた批判や反對はしなかつたものの、日記の中で、道長を嚴しく批判しつづけました。それが道長をして抑制した行動をとらせたと言つてもいいと思ひます。それでも、まあ、直接の害がなかつたので、道長としても排除しようとはしなかつたやうであります。

 

また、今日は、《源氏物語をよむ》 の準備として、〈帚木〉のつづきを豫習しました。「雨夜の品定め」が、はじめは階級別の女性論でしたが、次第に本格的な女性論といふか、妻にふさはしい女性についての細やかな分析に入りまして、息苦しくなつてきました。

 

今日の寫眞・・今日のココとモモタ