十一月廿四日(金)乙卯(舊十月七日 晴のち曇天

 

今日の讀書・・昨夜、ちよいと怖い、竹原春泉畫の 『桃山人夜話~絵本百物語~』 を讀み終はらせました。内容も面白いけれど、くづし字がやさしく感じられ、ますます自信がつきました。 

 

また、今日も 『日本紀略』 を讀み進みましたが、殘すはわづか、ラストスパートにさしかかつてきました。引きつづいては、『百錬抄』 がありますが、ものたりません。かと言つて、『大日本史料』 はつづく手持ちがないので、『史料綜覽』 に登場願ひまして、このまま江戸時代まで讀み進んでいけたら本望です。その間を、諸古記録やくづし字の文學で補つていきませう。 

 

さて、寛仁三年(一〇一九年)正月から、寛仁四年(一〇二〇年)十二月までを讀みました。『史料綜覽』 をあはせてみていくと、詳細すぎる 『大日本史料』 より前後が見わたせるのがいい。氣になつたのは、死亡記事と落飾・出家の記事です。

 

ちよいと遡つて、寛仁二年(一〇一八年)十二月十七日に、敦康親王が薨じてゐます。中宮定子さんの長男で、一條天皇の第一皇子です。當然天皇になる資格十分でしたが、道長の無視にさらされて御惱がつづき、たうとう亡くなつてしまひました。それも二十歳といふ短い生涯でした。しかも、どこに葬られたのか、場所を探しましたけれど見つかりません。故意に記録しなかつたとしか考へられません。 

寛仁三年三月十七日 このやうな非道な仕打ちをした、藤原道長が落飾入道。

同二十五日 皇后宮(藤原娍子)落飾尼ト為ル(亡き三條天皇の皇后です)。 

四月十日 小一條院御息所藤原延子卒ス(三條と娍子の息子で、いちどは皇太子にもなつた小一條院の妻。藤原顕光の娘で、元子の妹です)。 

寛仁四年六月 源頼定、八日に出家し、十一日に薨ず。元子の夫。四十四歳。

同八月十八日 故左兵衛督源頼定ノ室元子出家ス。 

以上は、みな 阿部光子さんの 『悪霊の左大臣』 の登場人物ばかりで、道長にとつては邪魔な人物ばかりです。まさかとは思ひますが・・・。そして、 

同十月 大納言藤原道綱 十三日出家ス。十六日 薨ズ。 

例の 『蜻蛉日記』 の作者を母とし、藤原兼家を父とするといふだけで、それでも六十六歳まで生きられたんですね。凡庸であればこその長生きなのでせう。 

 

寛仁三年には、「刀伊の入寇」といふ、侵略されるできごともおきてゐます。 

また、同年六月十九日 「是日、丹波國氷上郡百姓、陽明門ニ於テ廿四ヶ條ノ雑事ヲ愁訴ス」とあり、すぐに搦め取られてしまふのですが、「人民疱瘡ヲ患フ」、「春ヨリ疱瘡ヲ患ヒ、四月殊ニ甚シ」とあるなかで、果敢にも窮境を訴へでた百姓たちがゐたんですね。

 

賀茂祭につづき、祇園祭も誕生、都は裕福になつてきました。貴族たちは極樂往生を願つて寺院をあちこちに建て、佛像を供養し、法事三昧の日々。樂園のやうな日々だけでは満足せずに、來世の救ひまでも確約を得ようと大騒ぎ。その陰に、死を賭して、今生の生を望んで、それも、たつた「廿四ヶ條ノ雑事」です。この愁訴」の内容がどのやうなものであつたのかわかりませんが、人間として生きようとした百姓たちがゐたことは忘れてはいけないと思ひました。

 

今日の寫眞・・今日の切り抜き。詩歌の苦手なぼくはほとんど讀んだことはありませんが、ぼくが明學に入つた次の年に、天沢退二郎さんは明學の教師となつたのでした(註)。學生運動についての言及もあり、もしかしたら、「壇上の学長を糾弾」してゐたぼくを見てゐたかも知れません。懐かしいので切り取りました。 

(註・・天沢退二郎(あまざわ たいじろう、1936731- )は、日本の詩人、仏文学者、児童文学作家、翻訳家。宮沢賢治研究者。東京大学文学部仏文科卒業。明治学院大学文学部フランス文学科名誉教授) 

それと、バスの定期券。試しに買つたやうです。また、苦しかつた學生運動ただなかでの合宿!