十一月廿九日(水)庚申(舊十月十二日 晴

 

『日本紀略』 が讀み終り、讀書が一段落したので、久しぶりに散歩に出かけてきました。《東京散歩 じゆんの一歩一》、十月十二日以來、その第十五回目であります。 

ガイドブックによる、コース名と内容にはかうあります。「昔みちを歩く 大山みち・板橋&椎名町 板橋本町駅~椎名町駅 江戸時代から大山参りは庶民の間で定着していた。王子・板橋の人たちが大山参りに使った道をたどるコース。途中の富士淺間神社の長崎富士塚は国指定有形民俗文化財。〔所要〕3時間」。

 

まづ降り立つたのは、〈中仙道を歩く〉の第二回目の集合出發場所だつた、都營地下鐡三田線・板橋本町驛でした。小さな公園で體操してから歩きはじめた情景が思ひ出されましたが、今日は中仙道ではなく、大山道です。九時三〇分出發。少し北上してから、イナリ通り商店街を左折し、しばらくは西に向かつて歩きました。途中、商店街の名付け元の淸水稻荷が鎭座してをりまして、初つ端から休憩をとつてしまひました。 

まあ、だいぶ體力が落ちてきました。食欲がないのだから仕方ありませんが、それでもふらつとするのには細心の注意をはらつて歩きました。しばらくすると、「旧道らしい細い道」が左手に徐々に曲り、あとは、ゴールの椎名町まで一氣に南下するだけでした。

 

環七通りを横斷し、第二回目で歩いた石神井川を渡り、東武東上線を越え、やはり第三回目で訪ねた轡神社の前を通り、サミットでまた休憩。 

轡神社は、「百日咳・喘息平癒」が効能のやうで、今年はまだ咳が出ないところをみると、効いたのでせうか? サミットでは、ペットボトル入りの「飲む点滴」・甘酒があつたので買ひ込み、また歩きはじめました。

 

つづいて川越街道を渡り、大山西銀座通りを横切り、富士神社通りを眞南に向ひつつ、富士淺間神社をめざしたところ、寶暦二年(一七五二年)に建てられた庚申塔まできてから、通り過ごしたことに氣づき、だいぶもどりました。よほど注意してゐないと見つからない路地の奥に兒童公園と、フェンスに圍まれた長崎富士塚がありました。 

説明板には、「富士塚は、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まりである富士講によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれたもので、当塚は文久二年(一八六二年)に築造された。高さ約八㍍、直径約二一㍍で、塚全体が富士の熔岩でおおわれている」。 

それも、江戸近郊に五〇餘りあつたさうです。さう言へば、鐵砲洲稻荷神社にもありましたし、第二回目で氷川神社を訪ねたときにも、第四回目で中十条を歩いたときもありましたね。でも、完全な形で殘つてゐるのは、この長崎富士塚と、小野手照崎神社の下谷坂本富士塚、練馬区江古田淺間神社の江古田富士塚、の三基のみだといふことです。いずれも國重要無形民俗文化財に指定されてゐるといいますから、近くですし、訪ねてみたいです。

 

さて、ラストスパートは、庚申塔まで往復半し、要町通りを越え、ジグザグと、馬頭觀音・子育地藏を覘き、あとは長崎神社の裏から入つて表にぬけたら椎名町驛でありました。到着は一一時四五分、正味九二四〇歩でした。 

「昔みちを歩く」といふからだいぶ期待したんですが、いやなにたんなるどこにでもある住宅街を歩いただけでした。大山参りの昔は家などほとんどなく、畑ばかりであつたでせう。富士山も丹澤も、そして大山も見渡せたに違ひありません。まあ、想像はしてみましたが、目の前に繰り広げられる情景にはほとほとまゐりました。 

 

それで屈してゐてはなりません。ちやうど西武線ですし、今日から、所澤驛東口前のくすのきホールではじまる、「第84回 彩の国 所沢古本まつり」を訪ねてきました。 

晝食をすませて入場したら、まだ午後一時でした。けれど、のんびりとゆつくりと見るやうにしましたが、からだが重くて、早々に歸宅しました。で、探し得たのは、名児耶明著 『かなを読む 変体仮名解説と、古筆の鑑賞』 (淡交社)だけでした。 

今日一日では、合計一五一七〇歩あるきました。 

 

今日の寫眞・・〈中仙道を歩く〉第二回目の出發場所だつた、都營地下鐡三田線・板橋本町驛。富士淺間神社の長崎富士塚。宝暦二年に建てられた庚申塔。最後は、椎名町驛へと參道がつづく長崎神社。