十一月六日(月)丁酉(舊九月十八日 晴

 

今日の讀書・・昨夜、ふだんは古本でも高價なのに、先日の古本まつりで一〇〇圓で見つけた講談社文芸文庫、窪田空穂著 『窪田空穂歌文集』 を取り出して讀みはじめてみました。といつても、興味のある、「平安朝の歌と実際生活との關係」 と 「歌人和泉式部」 二つの短文を讀んでみただけですけれど、やはり氣になるのが式部さんです。調べてみたら、和泉式部さんは、紫式部と同じ中宮彰子さんにお仕へしてゐたんですね。 

和泉式部については、中仙道を歩いてゐるとき、御嶽宿の手前の畑の中「いづみ式部廟所」に出會ひ、それで興味を深めたのを思ひ出しました。そのとき、窪田空穂さんの著書にお世話になつたのでした(『歴史紀行 四十二 中仙道を歩く(廿三)後編 大井宿~御嶽宿』 二〇一五年正月廿九日、參照)

 

今日讀んだところで敎へられたのは・・。 

まづ、「御撰和歌集は古今和歌集とはちがって、古今の歌の心を主としたのにくらべると、事を主とした歌が多いといわれている。いかにも御撰を読むと、歌としてはそれほどではないが、事即ち、平安朝初期の貴族の生活と、その頃の歌との関係を思わせるものが多くて、その意味において古今とは別種の味いがある」。 

まだ遅々として 『古今和歌集』 を讀んでゐる状態ですから、早く 『御撰和歌集』 に進みたいのですが、いつのことになるやら皆目わかりません。これがひとつ。 

それと、これがとんでもないことだとぼくは思ふのですが、その歌です。あまりにも個人的といふか、實存的すぎるので、それで勅撰集にはそれほど取り上げられなかつたのです。その実存、さらに覗いてみたく思ひ、手もとにあつた、鳥越碧著 『後朝(きぬぎぬ) 和泉式部日記抄』(講談社文庫) を讀みはじめてみました。 

 

註・・和泉式部 平安時代中期の歌人。大江雅致(まさむね)の娘。母は平保衡(やすひら)の娘。長徳2(996)和泉守橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚、小式部内侍(こしきぶのないし)を生む。夫と別居後、為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王の求愛をうけたがともに死別。のち中宮彰子(上東門院)につかえ、藤原保昌と再婚した。中古三十六歌仙のひとりで、「拾遺和歌集」などの勅撰集に多数の歌がのる。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある。万寿2(1025)娘の小式部内侍に先立たれている。 

 

それと、『日本紀略』 の寛弘元年(一〇〇四年)正月から、同二年十二月までを讀みました。最近はかたはらに 『大日本史料』 を開いて、まあ讀むなんてものではありませんが、『日本紀略』 をひと月讀んでは、同じ部分の字づらをなでる程度に讀み進んでゐるのですが、たまには氣になる文面に出會ふことがあります。 

『日本紀略』 の寛弘二年(一〇〇五年)十月十九日に、「左大臣(道長)、木幡淨妙寺三昧堂を供養する」といふ記事に目がとまつたときです。さう、例の宇治陵の中にあつた、現在は木幡小學校が建つてゐるその場所に、淨妙寺といつても、このときは三昧堂ですから、「墓地にある葬式用の堂」を建てたといふことなんでせう。先日亡くなつた姉の詮子さんはじめ先祖の供養のために。ただ、淨妙寺の建物はこのときすでに出來てゐたやうです。 

さうしたら、『大日本史料』 のはうでは、これに關連して、道長がその場所を探すために現地におもむいたことから、なんども訪ねてこの日に至つたことどもを、『御堂關白記』 から抜き書きして列擧してあるのです。もちろん、例の「變體漢文」でですが、ぼくは現代語譯で、『御堂關白記』 のその十三箇所をすべて開いてみました。つい先日訪ねた場所ですから、熱も入りました。

 

寛弘元年(一〇〇四年)二月十九日 木幡に三昧堂を建立すべき所を定めるために、木幡の山の辺りに到ったところ、鳥居の北の方から河に出た。その北の方に平らな所が有った。街道の東である。(安倍)晴明朝臣と(賀茂)光栄朝臣が定めたところである。 

かうして決められた場所に、三昧堂は建てられていくわけですが・・・。 

三月二日 木幡の三昧堂のところを検分した。すぐに宇治の別業に到った。夜に入って、還った。 

三月二十三日 木幡の三昧堂に垣を立てているのを検分した。 

九月七日 天が晴れた。深夜、清水寺を出て、木幡の三昧堂を検分した。 

年が替はつて、いよいよ完成間近なのでありませう。 

六月二十一日 木幡の淨妙寺供養の際の三昧經を書き始めた。 

八月三日 木幡の淨妙寺に行って、三昧堂の造営を検分した。 

九月二十八日 淨妙寺の鐘を鋳た。・・・鐘を鋳たのは午剋であった。なかなか出来上がらず、不快であった。淨妙寺の客殿で食事を始めた。亥剋の頃に、土御門第に還つて来た。 

さうして、「十月十九日 左大臣(道長)、木幡淨妙寺三昧堂を供養する」といふ記事に到つたのでありました。

 

一方、『權記』 の行成さんはといへば、「十月十八日 左府(道長)の命によって、淨妙寺の額二枚を書いた。〈南は真名、北は草書〉。・・・夜半、起きて木幡に参った。十九日 日の出の頃、淨妙寺に参った。呪願文を書いた。木幡寺(淨妙寺)三昧堂供養が行われた」。と、臣下としての勤めをしつかりと果たしてをるのでありました。 

さう、行成といへば、忘れてはならない記事がありました。三昧堂供養のひと月ほど前のことです。「九月十七日 左府(道長)の許に参った。『往生要集』 を返し奉った。新写した私の自筆を召された。そこで奉った。原本の 『要集』 を賜った。」 

これは、行成が、自分が讀んでみたくて、『往生要集』 を借りて寫したのですが、道長は、渡した原本より、行成の書がすばらしいので、その方を召したといふ話です。行成の書、いいですねえ。これは漢字ですが、ぼくは、『伝藤原行成筆 升色紙』といふのを毎晩愛でてゐます。まあ、「傳」ですけれど。

 

とまあ、安倍晴明が出てきたり、宇治の別業や土御門第が出てきたりで興味はつきませんが、道長さん、とにかく精力的に動いてゐます。道長は三十九歳、一條天皇二十五歳、彰子さんは花も恥じらう十七歳の時のことでありました。 

 

今日の寫眞・・二〇一五年正月廿九日、中仙道は御嶽宿手前で出會つた 「いづみ式部廟所」。それと、先日訪ねた、道長が創建した浄妙寺跡の小学校と保育園。 

おまけは、『伝藤原行成筆 升色紙』。