十一月十五日(水)丙午(舊九月廿七日 晴

 

今日の讀書・・昨夜、藤沢周平著 『逆軍の旗』 を讀み終へました。短編四作。中身が濃い、といふかたいへん重く、心を暗くするやうな歴史現實を描いたものばかりで、つまらなくはありませんが疲れました。つづいては、『竹光始末』 です。これは明るくて輕快な内容だつたと思ひます。 

 

『日本紀略』 にもどりまして、まづ、先日書き殘した藤原道長の金峯山詣について記しておきたいと思ひます。 

寛弘四年(一〇〇七年)八月のことです。これも、『大日本史料』 で見かけた記事を、『御堂關白記』 を開いて確認したのですが、それによれば、何の先觸れといふか豫告もなしに、突然金峯山詣に出立します。 

ところが、『榮華物語』 によると、だいぶ前から準備はなされてゐたやうです。與謝野晶子譯で引用します。

 

「寛弘三年になった。道長は御嶽(金峯山)精進を正月から始めるつもりで、謹慎するために外出などもあまりしない方針でいたが、今年は駄目になるだろう」、と言つてゐるうちに日が過ぎ・・。 

「寛弘四年になった。二月になって道長は御嶽精進を始めようとした」。が、この時も挫折して延期された。 

「登山の前に道長は扇の中納言といわれた忠輔の家へ自身一人だけが移って行って潔斎をしながら暮らした。 

八月に関白の金峯山詣でがあった。道長は真心から信仰を持ってその深い山へ行こうとしたのである。」

 

このやうに、『榮華物語』 といふ傍証によつて、十分準備されたうへでの金峯山詣であることがわかりました。 

さて、『御堂關白記』 本文は。

 

「八月二日 金峯山詣に出立した。丑剋に土御門第から出立した。一条天皇の御物忌ではあったが、出立した。門を出る際に、塩湯を衆人に濯ぎぐかけた。中御門大路から西に行き、大宮大路を南に折れた。二条大路を進んで朱雀門大路に到った。朱雀門の前の礼橋において、解除(*)を行った。羅城門から出て、鴨川尻で舟に乗った。時に辰の剋であった。石清水八幡宮に参つた。午剋に奉幣を行った。誦(**)のために信濃布三十端を納めた。八幡宮から出立した。身主渡で木津川を東に渡った。内記堂と云う処に宿した。」(*穢れを祓い清めること。**お經を聲をあげて讀むこと)

 

以上が、出立當日の「日記」の全文です。かうして旅がはじまりました。

 

「八月三日 大安寺に宿す。宿所が華美であって、金峯山詣には相応しくなかったので、南中門の東腋に宿した。御燈明と誦のため信濃布三十端を納めた。」

 

このやうに、行く先々で供物といふか捧げものをしていきます。が、以下納めたことは省略します。

 

八月四日 井外堂に宿した。雨が、日を尽くして降った。 

八月五日 一日中、雨が降った。軽寺に宿した。 

八月六日 天が晴れた。壺坂寺に宿した。 

八月七日 観覚寺に到った。沐浴した。・・・現光寺(世尊寺)に到った。野極に宿した。この間、雨が降った。 

八月八日 一日中、雨が降っていた。野極に宿した。 

八月九日 時々、雨が降った。寺祗園に宿した。宝塔において、昼食を食べた。 

八月十日 時々、雨が降った。蔵王権現御在所の僧房(金照の房)に到着した。午剋に沐浴し、解除を行った。 

八月十一日 早朝、金峯山寺の湯屋に着し、水十杓を浴びた。解除を行ってから、蔵王権現に献上する物を御前に立てた。

 

以下、揚げ足を取るやうですが、あちらこちらに物を獻上するしだいが延々とつづきます。曰く、「納めた、献上した、供した、申上した、下賜した、贈った、供養した」と。それらは省略し・・。

 

経供養が終わって所々を見てみると、霧が下りて、(「私が供養した御燈明の百万燈は)思ったように見えなかった。金照の房に還った。金照に掛を下賜して、すぐに下向した。夜に入って、寺祗園に宿した。 

 

八月十二日と十三日は省略。 

八月十四日 暁方、淀に到着して、車に乗った。鴨川の精進所に着いた。精縄を用いて解除を行った。土御門第に着いた。すぐに内裏(一條院)、および東宮の許(枇杷殿北対)に参った。 

 

以上、道長の金峯山詣でしたが、先日讀んだ、神坂次郎さんの 『藤原定家の熊野御幸』 を髣髴させる内容です。もちろん、定家さんは上皇にお仕へする身、休む暇もない苦行のやうな旅でしたが、こちらは御堂關白道長自身が主導する參拜の旅。己の願ひがかなふやうその目的さへ果たせればいいわけで、書いてゐることもおこなつた結果だけです。 

このやうに、どこを訪ねても、納めた、献上した、供した、申上した、下賜した、贈った、供養したといふふうに、これが權力者のつとめなんでせうか。極樂往生のためにはなりふり構はず、必死にすがりつくといつた感じです。

 

このとき、「経を供養した」とありますが、これは、「經筒」のやうなんです。『大日本史料』 には、その寫眞が折り込まれてゐるので、今日の寫眞に添付しておきます。「平家納經」といふのは聞いたことがありますが、「道長納經」もあつたといふことですね。 

 

昨日送つていただいた 『國書總目録』 が今朝には屆きました。大變な重量でしたが、妻に見つからぬやうに二階まで運び上げました。息がきれました。あらためて見てみると、一册あたり、定價では一八〇〇〇圓なんですね。なかなか手に入れられなかつたのも納得できます。このやうな本は、一册二册買つても意味がありません。かと言つてそんなに頻繁に使ふものでもありません。が、圖書館にいちいち行つてゐられないし、手元にあるのが一番。 

三大編纂物と稱されるうちの、他の 「群書類從」 はすべて、「古事類苑」 は必要なものが揃ひました。あとは勉強するのみ! 

 

今日の寫眞・・「道長納經」寫眞と、今日屆いた 『國書總目録』。