十一月十六日(木)丁未(舊九月廿八日 晴

 

今日の讀書・・『日本紀略』 寛弘四年(一〇〇七年)八月以降、寛弘五年十二月末まで讀みました。『大日本史料』 は、第二編之五から第二編之六にかはりまして、両者相補ひながら讀み進みました。 

八月二日から八月十四日までは、道長の金峯山詣でした。その同じ年の十月の二日、「三品太宰帥敦道親王薨 年廿七」 とありまして、和泉式部さんのかけがひのない愛人がまた亡くなつてしまひました。出逢つてから四年目のことでした。 敦道親王も兄の爲尊親王も、今は東宮ですが、のちの三條天皇の弟たちですから、まんいちがいち天皇になる方々でもあつたわけであります。

 

「宮さま、何故に・・・ 宮さま─、どうして許子ひとりを残して逝っておしまいになったのです。宮さま。 

その亡骸に取りすがり、乱れ叫ぶ許子の頬を、涙が狂しく濡らした。 

悲しみに沈む宮廷に、許子の引き裂くような嗚咽が、いつまでも流れ聞こえていた。」

 

これは、鳥越碧さんの 『後朝 和泉式部日記抄』 からの引用ですが。さもありなんの状況なんです。『和泉式部日記』 の冒頭に、「夢よりもはかなき世の中を嘆きつつ明し暮らすほどに」、とありましたが、このときは、敦道親王の兄、爲尊親王の死をぐつと我慢をしてすごしてゐた式部さんですが、その後、せつかく實つた敦道親王との愛までも奪はれて、このやうに叫ばざるを得なかつたでせう。

 

ましてや、兄宮との、弟宮との、その戀愛關係は夫も娘もゐる式部にとつては不倫ですから、「浮かれ女」との世の批判はかまびすしく、やつと得た愛が二度ども消え去つてしまつたことは、どんな言葉をもつてしても言ひ表せないものがあつたと思はれますが、歌人和泉式部の、そこがすごいと思ふのですが、いや、和歌とは本來言葉にならぬ思ひを表現できる心の通路なんでせう。 

 

「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり」 

 

これですね。ぼくは歌が詠めないので、こころがうごめいたら、このやうに雑文を書くのがせめてもですが、歌の力が日本人の心にとつてどのやうなものであつたか、この『古今和歌集』 の〈序文〉がはつきりと書いてゐます。 

ただ、『古今和歌集』 は、ご存じのやうに、技巧を凝らした言葉づかひ、言葉遊びが主みたいなものですから、二轉三轉してやつとさういふことかと、それでもなんとなく理解できる程度ですが、和泉式部さんの歌は率直です。こころに響いてくるんですね。 

敦道親王に先立たれたときに詠んだ歌をいくつか。 

 

〈今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな〉 

〈黒髪の乱れも知らず打ち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき〉 

〈身よりかく涙はいかがながるべき海てふ海は潮やひぬらむ〉 

 

『和泉式部集・和泉式部續集』 の複製を入手したので、くづし字の勉強もかねてちらちら讀んでいきたいと思ひます。 

 

今日の寫眞・・昨日の「道長の金峯山詣」の補足。金峯山の仁王門と本堂の藏王堂。両方ともに國寶です(註)。二〇一二年四月五日に訪ねましたが、吉野の櫻はまだつぼみでした( 「歴史紀行七 京都御所・高野山・吉野山編」 參照)。 

 

註・・金峯山寺(きんぷせんじ) 奈良県吉野郡吉野町にある修験道金峯山派の本山。吉野山にある本堂蔵王堂は東大寺大仏殿につぐ木造建築物として有名である。寺伝では役小角(えんのおづぬ)の開基とするが確証はない。しかし奈良時代に広達が金峰山で仏道を修し、平安時代には山居禅行を修める山として著名であった。898(昌泰1)に宇多法皇は金峰山に参詣、聖宝は当寺に蔵王像,観音像を造立した。平安時代中期になると御岳精進(みたけそうじ)という言葉が流行し、潔斎を行って参詣するものが多くなり、漸次寺観も整備,寺勢も強大化した。