正月十九日(火)庚子(舊十二月十日 晴

 

今日は月例の齒の掃除日。毎夜眞面目にブラッシングしてゐるので、わづかな時間ですみました。 

 

ぼくが正岡子規を批判的に見るやうになつたのは、山本夏彦著『完本 文語文』(文春文庫)を讀んだ、二〇一二年の十一月あたりからでした。そのことについては、いつだつたかこの日記に書いたことがありましたが、確認のために再度書き出してみます。 

《歌や句は町人もよんだ。・・・樋口一葉は塾を開いて歌と習字を教えてくらしを立てるつもりだった。 

  ますかゞみわれもとりでん見しひとは きのふと思ふにおもがはりせる 

・・・一葉は歌を何百何千と残しているがそれについて論じたのを見ないのは、子規のせいである。子規は、「日本」紙上で十回にわたり古今集をつまらぬ歌集だとほとんど唾棄して、日本中の歌よみはその剣幕を恐れて従ったから、わが国古来の「風流」は失われたのである。 

昔の女は芸術家になろうとして歌をよんだのではない。子規は古今は字句の遊戯にすぎないというが、字句の遊戯のどこがいけないのだろう。歌枕をたずねるのがどこがいけないのだろう。》(『完本 文語文』(文春文庫 二四七頁)

 

ぼくは、中仙道を歩きはじめた、二〇一三年三月の頃、小泉八雲の 『ある女の日記』 を讀み、その中で、會話をかはすやうにして夫と妻が歌をやりとりしてゐるのを知つて、正直なところカルチャーショックをうけたものでした。『歴史紀行十三 中仙道を歩く(三)』 でその日記を取り上げたので、その時に讀んだんです。さういふ「文化」が見られなくなつたのは、まさしく「子規のせい」なんでせう!

 

さらに、リンボウ先生こと、林望さんの 『「読む」「聴く」そして「時間」』といふ論文を讀んでさらに確信を深めたのでありました。 

《昔の人は長い時間をかけて朗詠しつつ、そのイメージの美しさを楽しんだんです。だから「歌」なんです。・・・つまりそれを歌わないと意味がないんです。これはまさに、能の謡曲、漢詩の朗吟、歌曲の歌唱と、みなつながっていることに違いありません。そういう意味で正岡子規は近代短歌を作る意味では大きな功績もあったかもしれないけれども、一方では歌わない歌を前提にしたという、大きな過ちを教えた罪もあったことを、ぜひ知っておいてほしいと思います。・・・『古今集』なんかを、近代和歌的な片寄った物差しで読んだって、それは分からないはずです。そういうスクールにみな統一してしまったという、その意味で正岡子規の罪は深いのです。》(ロバート キャンベル編『読むことの力 東大駒場連続講義』〈講談社選書メチエ〉所収) 

 

正岡子規の「罪」は、別の角度から言ふと、富國強兵といふ時流にのつて、益荒男振りの『萬葉集』を持ち上げるために、手弱女振り『和歌』をおとしめたことです。時流にのると言ふのは權力に媚びるものの常套手段なんでせう、ぼくは許せない氣がします。結局は時の權力に協力することでしかないからです。

 

また、最近では、スポーツ界でも、權力におもねる場面をしばしば目にします。アベの人取りに一役かつてゐるんです。スポーツが好きになれない理由の一つかも知れません。ぼくも氣をつけたいと思ひます。

オリンピックはその最たるものですが、まともなスポーツ大會にするなら、オリンピック發祥の地ギリシャのアテネに立派な競技場をこしらへ、そこで毎回開けばいいんです。以上。

 

權力におもねるやからが目について仕方ないこの頃ですが、今日は十九日、月例の抗議行動に行つてまゐりました。 

『私たちはあきらめない! 戦争法を廃止へ! 安倍内閣は退陣を 1・19総がかり行動』といふ集會です。午後六時半から、衆議院第2議員會館前を中心に行はれ、報告によれば四〇〇〇人が集まつたといふことです。たしかに、大勢の人々が集ひ、各代表の挨拶といふか、安倍政治に對する批判と、選擧を控へての野党協力を訴へてゐました。聞けば聞くほど安倍が率ゐる自公政權が人道にもとる政權であることが分かつてきました。 

それにしても、本來犬猿の仲である自民と公明が協力しあへてゐるといふのに、安倍を退陣に追ひ込むために野党が協力し得ないことはないはづなのに、どうしてもたもたしてゐるのか、そんな苛立ちの發言が印象的でした。 

氣温が低く、風も強くて寒かつたですが、みなさんの胸の内は燃えてゐるやうに見受けました。 

 

今日の寫眞・・衆議院第2議員會館前に集まつた人々!

 



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