正月四日(月)乙酉(舊十一月廿五日 晴、暖か

 

小松英雄著 『古典和歌解読 和歌表現はどのように深化したか』(笠間書院)を讀み終はりました。今朝、まだ暗いうちにトイレに起き、そのまま眠れずに讀み出したらとまらず、たうとう最後まで讀み切つてしまひました。そうしたら、ちやうど、ご飯ですよ~、とのお呼びがかかり、パヂャマのまま食堂へ下りたのでした。 

さて、昨日は興奮したと書きましたので、同じ言葉はできれば使ひたくないのですけれど、どうにも興奮したとしか言へないんです。すみません。まあ、何に興奮したか、次の言葉を讀んでみてくださいまし。

 

「国粋主義者でもなく、日本文化の熱心な擁護者でもない筆者が日本語に魅せられるのは、筆者の場合、運用の機微を理解できる言語が日本語以外にないからである。その日本語を繊細な感覚でいきいきと運用して 「ひとの心」 を表現した抒情詩(『古今和歌集』)が、注釈者(從來の國文學者)たちに歪曲され、矮小化され、文化史家(正岡子規、和辻哲郎)に足蹴にされるのを、筆者は黙過できない。かわいい我が子がイジメにあっている心境である。それは間違いだ、と筆者は声を大にして叫びたい。そのことを具体例で客観的に証明し、一人でも多くの人たちが和歌表現の精髄を味わい、日本語に即して言語運用の機微を理解してほしい。本書には、そういう願いがこめられている。」

 

まつたく共感いたします。そして、ぼくが一讀して言へることは、やさしい内容であるとは言へませんが、よくよく納得できました。でも、本書は、はじめからもう一度讀み直したいと思ひます。といふのも、その帶には、「古今集に仕掛けられた撰者の知的挑戦を、千年の時を経て遂に解読!」とありまして、ぼくのやうなやはな頭の持ち主には一讀では無理であらうことは明らかで、一讀で抜け落ちたといふか、素通りしてしまつたであらう事柄をもう一度讀むことで落ち穗拾ひをしなければなりません。 

そして、それとともに、今日は、『古典再入門』を讀みはじめました。こんどのは、「『土左日記』を入りぐちにして」といふ副題が示すやうに、『土左日記』ばかりではなく、『古今和歌集』、『伊勢物語』なども取り上げてのお勉強であります。 

ここで、だいぶ時間が取られるでせうが、ぼくの勘では、これからの古典を讀むために多大の力になつてくれるであらうことは間違ひありません。帶にも、「古典文法に呪縛された、断片としての古文から、文学作品としての古典への再入門」とあります。大いに期待して讀みはじめたいと思ひます。 

 

さうです、今日は弓道場へ行つて、初稽古をいたしました。先生と齋藤さんと小野さんとご一緒に。間があいてしまつて不安でしたが、どういふわけか、調子がよくて、終はつてからのコーヒーが美味しかつたです。 

 

今日のピクニック・・一應ノラのことを氣にしながら、夜九時から一時間ばかり近所をぐるりと回り、最後は氷川神社で締めました。 

 

今日の寫眞・・弓道場での初稽古と夜の氷川神社と、森さんから解讀を賴まれた年賀状の寫し。それと氣になる切り抜きです。

 



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