正月五日(火)丙戌(舊十一月廿六日 晴

 

小松英雄著 『古典和歌解読』 につづく、『古典再入門』 も胸をときめかして讀みつづけました。その、まだとば口で、大切な、また樂しみなことを敎へていただきました。それを以下に述べてみます。 

さて、さて、『古今和歌集』の卷十「物名」には、四十七の和歌がおさめられてゐますが、それらは、「題として与えられた語句(物の名)の仮名連鎖を詠み込んで、その題にふさわしい内容の和歌に仕立てあげ」られてゐる、「仮名文字の遊び」だと言ふのです。

 

「わかやとの はなふみしたく とりうたむ のはなけれはや ここにしもくる」

 

の歌の中に、どんな「物の名」が詠み込まれてゐるかといふのですが、これを、教科書風に書き出せば、

 

「我が宿の 花踏みしだく 鳥打たむ 野はなければや ここにしも来る」

 (わが家の花を踏みつけてだいなしにする鳥を叩いてやろう、野はないからなのだろうか、ここにばかりやってくる)、

 

となるでせうが、詠み込まれた語句はよけいに隱れてしまひます。でも、「物の名」の部では、はじめに題(物の名)が示されてゐますから、繰り返し讀んでみれば、自然と見えてきます。この例では、「りうたむのはな」(龍膽の花)、つまり「りんどう」です。 

でも、この「りうたむのはな」にしても、和歌の意味を考へながら讀んだのではかへつて見つけ出せないのです。つまり、詠み込まれた「二次的仮名連鎖」(この場合は「りうたむのはな」)を見つけるためには、和歌の「意味を引き当てずに一次的仮名連鎖を最初から目で追うことです」と言はれます。かうして、「りうたむのはな」が見つけられればしめたものです。が、くりかへし言ひますが、表面の意味に捕らはれてゐると、なかなか見えてこないから不思議です。 

「この和歌のやうな仮名連鎖の重ね合はせを複線構造とよび、「とりうたむ のはなけれはや」の部分を一次的仮名連鎖、「りうたむのはな」の部分を二次的仮名連鎖とよぶことにする、と小松先生は、ちよいと聞き慣れない用語で提唱してゐます。まあ、言つてゐることはよく分かります。 

そして、ここからですが、「仮名連鎖による複線構造は、平安前期の和歌だけの表現技巧で、『物の名』部ばかりでなく、『古今和歌集』のいたるところに使われています。『物の名』部以外の和歌には二次的仮名連鎖が明示されていませんから、読者が探し出すことになります」。しかも、「複線構造の和歌の場合、概して、一次的仮名連鎖よりも、析出された二次的仮名連鎖のほうに表現の重心があります」、とおつしゃられるのであります。 

さあ、面白くなつてきました。つまりですね、 

「『古今和歌集』を中心とする平安前期の和歌は、仮名連鎖を巧みに運用して構築された複雑な表現を読者が丹念に解きほぐしながら読み味わうという、作者と読者との知的ゲームでした。その意味で、『古今和歌集』は一千余首の問題集ですから、組み立てが複雑な和歌ほど、きれいに解けたときの達成感は大きくなります。」

 な~るほど。知的ゲームですよ! かうでなけりやあね。學校でぼくらは何を學んできたのでせうか。今さらながらですが、「二次的仮名連鎖」が隠されてゐるのかゐないのか、樂しみながら、『古今和歌集』を讀んでいきたいと思ひます。 

 

今日は、妹と、その娘の彩ちやんが生後三ヶ月になる赤子を連れてきました。母の曾孫です。まだぽよぽよですが、ぼくが動くと、その姿を目で追つたりして、外界には反應するやうになつてきたやうです。 

 

今日の寫眞・・ぼくの何になるんんだらう? 姪の娘だから・・ふ~む、分からん。その子とともにと、今日屆いた問題の本。圖書館に行つたら、百人ほど待つてゐると言はれたので、ついに求めてしまひました。それと、今日の切り抜き。

 



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