七月三日(金)庚辰(舊五月十八日 雨のちやむ

 

ワード版『歴史紀行五十一 中仙道を歩く(廿八)』(醒井宿~愛知川宿)を書きはじめました。中仙道も近江國に入り、いよいよ琵琶湖を自分の目で見ることのできる所までやつてきました。

今回の旅は、しかし一概に言へば單調でした。何處といつて取りあげるべき史跡が少なかつたからです。とくに二日目の道中は長くて退屈で、辛くて、途中から靴ずれが痛み出して散々でしたが、まあ、初日と三日目に寄り道した彦根城と竹生島が素晴らしかつたので、許すことにしませう。

今日は、それでも、番場宿まで書くことができて、蓮華寺を訪問するところにさしかかりました。そこは、番場の忠太郎の「墓」があるので有名ですが、ぼくには、しかし、鎌倉幕府滅亡そのものであつた、北條仲時以下四百三十二人が自刃したところとして、氣になる場所でした。そこで、午後からは、史料や參考書を出してきて、鎌倉幕府滅亡と北條仲時とその部下がここで自害するまでの經緯を納得しておくために、勉強をはじめました。

 

ところで、昨夜、夕食後のひととき、《開運! なんでも鑑定団》を見てゐましたら、はじめに硯が出てきました。六十萬圓といふ値段がついたやうですが、それを一緒に見てゐた母が、「うちにも大きな硯があるんだよお」、と言ひ出したのです。まさかあ、とぼくと妻は輕くあしらはうとしたんですが、母は聞かずに奥の部屋へ行くので、あとをついて行くと、母は床の間の奥の隅から、何やらホコリだらけの物を出してきたのです。ぼくがそれを受け取つたところ、思はず落としてしまひさうになりました。それほど重かつたのです。

白く被つたホコリを拂ひ、一通り水で洗ひ流してみると、それがまあご立派な硯なんです。細かく龍の彫刻までほどこされた蓋までついてゐるんですから、ただものではないと思ひました。しかし、硯としての價値があるものなのかどうか、銘も何も記されてはゐません。それこそ「鑑定団」にでも出して調べてもらはなければ分かりませんね。

でも、いつたいどんな謂はれのある硯なんでせうか。母も分からないさうです。ぼくは、祖父が鶴岡から出てくるときに持つてきたものならいいなと思ひました。

 

今日の寫眞・・ご立派な蓋のついた重厚な硯。

 


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