十月(神無月)一日(火)舊九月三日(辛未 晴 

今日は通院日。九月はあたふたとして體調が最惡だつたので、みか先生に容態を説明したり、藥を一部飲まなかつた言ひ譯をしたりで冷や汗をかいたが、現在だいぶ復調してきたので先生も喜んでくださつた。そこで昨日作つたお箸をさしあげて歸つてきた。 

 

神保町ではんこ屋をさがし、紛失した「ひげ」の黄楊印のかはりに、手もとにある高級印材で同じ「ひげ」の文字を彫つてもらはうとしたら、受け付けてゐないといふ。店にある印材に、店にあるデザインの各種から選んで彫ることしかしてゐないといふ。ぢやあ、はんこ屋ではなくて單に機械で彫る工場でしかないとガッテンして、踵を返した。 

 

夜、川野さんから、八ッ場ダムの試驗貯水が今朝からはじまつたとの連絡があつた。ところが、紅葉の頃見に行きませうなんて書いたあとに、貯水開始直後が見たいから、明後日に個人的に行くといふ。ぼくだつて、紅葉ももちろん魅力的だが─あの尾瀨のすばらしい紅葉を一瞬惱裏にうかべながらも─、抜け驅けはだめです、ぼくも貯水開始直後といふのが見たいと書き送り、一緒に行くことにした。もちろん、みか先生だつていいと言つてくださるだらうし・・。 

 

今日の讀書・・阿満利麿著 『法然の衝撃』(ちくま学芸文庫) を讀みはじめる。冒頭はまるで佛敎傳來の歴史の復習。傳來といつても、それは「佛像」傳來によつて開始された傳來であり、それが古來の死者儀禮や自己の死後への不安や、かつまた共同體の維持にどのやうな影響をあたへたのか。 

神は、お祭りや彼岸の迎へ火に顕著なやうに「非常住性」であり、しかも氏神だつたり、地域の神、或いは竈の神だつたりして個別的な人々や共同体の維持に供する特殊な神であるにたいし、佛は、「佛像」がさうであるやうに、普遍的で「常在性」を特徴とする。 

ところが、われわれの祖先以來の傳統では、佛に直接祈願するよりも、身近な血縁・地縁の人々を庇護する特殊な神を通して佛に接し、慈悲をうけたきた。それが神佛習合と呼ばれてきたことで、つまり、身近で親しみのある特殊な神と、一層普遍的な佛といふ二重構造が、我々の先祖傳來の信仰構造であつた。 

ここまで理解するだけでだいぶエネルギーを使つたところで、やつと法然さんが登場したかと思ふと、「この二重構造を破り、普遍に直結することを教えたのが、法然の専修念仏にほかならなかった」と言ひ、「しかしまた、法然の専修念仏は、伝来の宗敎意識の強固な壁の前に、そのエネルギーを持続することは困難であった」。 

といふ第一章、第二章の内容を前提にして、はたしてなにが法然の念佛の特徴であり、それが人々にはどうして受け入れ難かつたのかがこまかに語られていくやうだ。 

 

十月二日(水)舊九月四日(壬申 くもりのち晴 

今日は妻につき合つて、巣鴨地藏通り商店街を歩いてきた。なんでも、氣にいつた “鰹だし” を買へる店があつて、自分が行けないときにはぼくに買はせるやうに、その店を敎へたいといふのである。ばあさん、ぢいさんがまばらな通りを歩いて行くと、とげぬき地藏高岩寺の二、三軒先の右手にその店はあつた。妻には、間違はないやうにとそのパッケージの特徴を詳しく敎へられ、ぼくははいはいとうなづくしかなかつた。 

まだ一二時前、都電まで歩かうとなつて、そぞろ街ブラ。赤パンの店が何軒もあつた。適当なそば屋に入つて晝食。都電は混雑、どうにか座れたが、町屋までたつぷり三〇分、ゆられてうとうと。それでも歸宅したのは一時過ぎ。いい散歩になつた。

 

八ッ場ダムの試驗貯水を見に行くのを延期した。二日や三日ではほとんど水位の變化はないやうだからで、まあ樂しみを先にのばした感じだ。 

 

今日の讀書・・『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第四十五・四十六』 と 『法然上人絵伝 第四十七~四十八』(岩波文庫) を讀み、これで長丁場だつた 『法然上人絵伝』 を完讀。變體假名を讀み通したわけで、やさしかつたにしても、とても自信がついた。物語風なところもあれば、教義の詳しい説明もありで、すべてよく理解し得たわけではないが、一應讀んだことにする。 

阿満利麿著 『法然の衝撃』 も讀み進む。

 

また、《變體假名で讀む日本古典文學》 のつぎの候補として、『さらしな日記』 を讀みはじめる。問題は、どの寫本で讀むかといふことだが、ぼくは、だんぜん、「元版群書類從特別重要典籍集」 で讀むことにした。普通ならば、藤原定家筆の寫本を選ぶのだらうが、ぼくは文字として讀みやすく、必ずや他の變體假名本解讀にも役立つ、「古本ヲ以テ書寫シ、屋代弘賢藏本ヲ以テ校合」したといふ、讀み馴染んだ群書類從の和本でいくことにした。 

 

*寫眞の右が藤原定家筆、左が「元版群書類從特別重要典籍集」版 

 

 

  

十月三日(木)舊九月五日(癸酉 晴 

今日は終日横になる。八ッ場ダム見學が延期になつてよかつた。昨日巣鴨につき合はされたからだらうと思ひ、のうのうと疲れをとつた。だが、それほど讀書は進まず。 

 

十月四日(金)舊九月六日(甲戌 雨のち晴 

今日も讀書。群書類從本の和本 『さらしな日記』 を讀み進む。ところが、著者が京に到着したところで、「錯簡」(筆寫した紙の綴じ間違ひ)といふのだらうか、文章が前後して、藤原定家自筆本とはつながらないところがあり、ちよいとまごついてしまつた。 

それはさうと、著者が上京したのち、乳母に死なれて悲しみに沈んでゐるときに、讀みたかつた 『源氏物語』 と出會ふ場面が印象深い。 

 

「かくのみ思ひくんじたるを、心もなぐさめんと、心ぐるしがりて、はゝ、物語などもとめてみせ給ふに、げにをのづからなぐさみゆく。むらさきのゆかりをみて、つゞきのみまほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。されど、いまだみやこなれぬほどにてえみつけず。いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるまゝに、『この源氏物がたり一の卷よりしてみなみせ玉へ』と心のうちにいのる」 

すると、 

「をばなる人の、ゐなかよりのぼりたる所にわたいたれば、『いとうつくしうおひなりにけり』など、あはれがり、めづらしがりて、かへるに、『何をか奉らん。まめまめしきものは、まさなかりなむ。ゆかしくし給なるものを奉らん』とて、源氏の五十餘卷、ひつにいりながら、ざい中將、とをぎみ、せり川、しらゝ、あさうづなどいふものがたりども、一ふくろとり入て、えてかへる心地のうれしさぞいみじきや。はしなくわづかに見つゝ、心もえず心もとなく思ふ源氏を一の卷よりして、人もまじらず、木丁のうちに打ふしてひきいでつゝみる心地、きさきのくらゐもなにかゝはせむ。ひるは暮し、よるはめのさめたるかぎり、火をちかくともして、是を見る・・・」 

 

あこがれの源氏を得て、どれほどうれしかつただらうと想像しつつ、いつでもどんな本でも手に入れて讀める今日の環境がはたしてより幸福なのかどうかはわからないと思つた。 

 

夜になつて、「毛倉野日記(十三)」(一九九五年四月)分を書き寫したので、お待ちかねの方々にお送りする。 

 

十月五日(土)舊九月七日(乙亥 晴のちくもり 

今日も調子がよくなかつた。それでも、「毛倉野日記(十四)」(一九九五年五月)分を寫しはじめ、お晝は、驛前のタカノまで出かけて、タンメンと餃子を食べることができたけれども、午後は寢たきり、異樣な夢を見る。夕食はほとんど食べられず。 

 

グレイが我が家にきてからまる三か月。それなのにぜんぜん太らず、さはればがりがり。と言つて食事はよくしてゐるので心配はしてゐないが、人に聞いたら、運動し過ぎで肉がつくまがないのだといふ。たしかにその行動たるや、右に行けばすぐ左、かと思へばがりがりとカーテンをのぼりつめてその縁から顔を出す、といつたあんばいで、目が離せないとはこのことを言ふのだらう。とにかくじつとしてゐない! ココ以上だ。