十月六日(日)舊九月八日(丙子・上弦 小雨のちやむ 

今日も安靜にして讀書。食欲はちよいと回復。 

阿満利麿著 『法然の衝撃』 讀了。たいへん勉強になつた一册であつた。まづ、どんな問題意識で本書が書かれたか、〈文庫版あとがき〉で著者は次のやうに述べてゐる。

 

「日本の仏教は、世俗の権力に始終迎合して、仏教の中核である慈悲の実践においても欠けるところが大きい、といふ歴史を負っている・・・。私には、そのような仏教が『仏教』であるわけがない、という思いがなぜか激しい。 

飛躍を承知であえていうのだが、現代の日本や世界は、利潤追求を至上命題とする『新自由主義経済』というイデオロギーに支配されて、弱肉強食が正当化され、人類が長い時間をかけて積み上げてきた、普遍的な価値や自然環境との共生が根こそぎ破壊されようとしている。 

こんな時代を生き抜くためには、今までの時代以上に強固な立脚地がいる。揺るがぬ立脚地を得て、人ははじめて意義ある人生を歩むことが可能になる。その立脚地を保証するのが宗敎ではないのか。法然の仏教は、そうした立脚地を保証する数少ない宗敎のように思う。」 

その理由は、本書に横溢してゐるので熟讀するしかないが、法然の宗敎の衝撃について、「あえていえば、法然の専修念仏は、決して中世の特殊な現象ではなく、今日にも深い意味をもつ普遍的救済思想なのであり、その衝撃力は今なお衰えていないように、私には思われる。」 

たしかに、ラディカルすぎるかもしれないけれど、あらゆるしがらみから解放する敎へとして、今日ばかりでなく、あらゆる時代に共通して求められるものだと思ふ。 

 

つづいて讀みはじめた 飯嶋和一さんの 『狗賓童子の島』 にはたまげた。隠岐が舞臺なのだなあと讀みはじめたら、そこに流されてきた囚人が、なんと大鹽平八郎の擧兵に連なつた西村履三郎の息子、常太郎であり、一轉、九年前に引き起こされた大塩平八郎の亂に話は移る。

 

内容説明から・・・弘化三年(一八四六)日本海に浮かぶ隠岐「島後」に、はるばる大坂から流された一人の少年がいた。西村常太郎、十五歳。大塩平八郎の挙兵に連座した父・履三郎の罪により、数え六つの年から九年に及ぶ親類預けの果ての「処罰」だった。ところが案に相違して、大塩の乱に連座した父の名を、島の人々が敬意を込めて呼ぶのを常太郎は聞いた。翌年、十六歳になった常太郎は、狗賓(天狗)が宿るという「御山」の千年杉へ初穂を捧げる役を、島の人々から命じられる。下界から見える大満寺山の先に「御山」はあったが、そこは狗賓に許された者しか踏み入ることができない聖域だった。やがて常太郎は医術を学び、島に医師として深く根を下ろすが、災禍に痛めつけられ、怒りに染まっていく島民らの姿を目の当たりにし、島を覆う幕末の狂乱に巻き込まれていく―。

 

飯嶋さんの書くものははずれがないといはれてゐる。敬遠したくなる題材であつたとしても、いままでにつまらないと思つたものはない。その世界にぐんぐん引つ張り込まれていく。 

 

十月七日(月)舊九月九日(丁丑 くもり 

朝食後、齒科醫院へ定例通院。クリーニングのほかに、目立つところの齒をとてもきれいに補修してくれた。感謝。 

 

『さらしな日記』、今日のところは、迷ひ込んだ猫のことが可愛いらしく描かれてゐる。ちよいと長いが書き寫す。 

 

「花のさきちるおりごとに、めのとなく成し折ぞかし、とのみあはれ成に、おなじおりなく成玉ひし侍從大納言の御むすめの書を見つゝ、すゞろにあはれ成に、五月ばかり、夜ふくるまで物がたをよみておきゐたれば、きつらんかたもみえぬに、ねこのいとながうないたるを、おどろきて見れば、いみじうおかしげなる猫なり。いづくよりきつるねこぞと見るに、あねなる人、『あなかま、人にきかすな。いとおかしげなる猫なり。かはん』とあるに、いみじう人なれつゝ、かたはらに打ふしたり。尋ぬる人や有と、是をかくしてかふに、すべて下す(下衆)のあたりにもよらず、つとまへにのみありて、ものもきたなげなるは、ほかざまにかほをむけてくはず。あねおとゝの中につとまとはれて、おかしがりらうたがるほどに、あねのなやむ事あるに、物さわがしくて、此ねこをきたおもてにのみあらせてよばねば、かしがましくなきのゝしれども、なをさるにてこそはとおもひてあるに、わづらふあねおどろきて、『いづら、猫は。こちゐてこ』とあるを、『など』ととへば、『夢に此ねこのかたはらにきて、「おのれはじじうの大納言殿の御むすめの、かくなりたる也。さるべきえんのいさゝかありて、この中の君のすゞろにあはれとおもひ出たまへば、ただしばしこゝにあるを、此ごろ下すのなかにありて、いみじうわびしきこと」といひて、いみじうなくさまは、あてにおかしげなる人と見えて、打おどろきたれば、此ねこの聲にて有つるが、いみじく哀成なり』とかたり玉ふを聞に、いみじくあはれ也。そののちは、此ねこを北面にもいださず、おもひかしづく。たゞひとりゐたる所に、此ねこがむかひゐたれば、かいなでつゝ、『侍從大納言の君のおはするな。大納言殿にしらせ奉らばや』といひかくれば、かほをうちまもりつゝ、ながうなくも、心のおもひなし、めのうちつけに、れいのねこにはあらず、きゝしりがほにあはれ也。」

 

そして・・・

 

「そのかへる年、四月(治安三年)の夜中ばかりに、火のことありて、大納言殿の君と思かしづきしねこもやけぬ。『大納言殿のひめ君』とよびしかば、聞しりがほになきて、あゆみきなどせしかば、てゝなりし人も、『めづらかに哀なること也。大納言に申さむ』などありし程に、いみじうあはれに口おしくおぼゆ。」 

 

以上が、「大納言殿のひめ君」と呼ばれて可愛がられたけれども、火事にあつて死んでしまつた不思議な猫の描寫の一部始終である。 

 

十月八日(火)舊九月十日(戊寅・寒露 ゆうべは雨、日中曇天 

朝食後、箸作り。三膳豫定してゐるうちの一膳のみ仕上げる。しばらく工房を使はなかつたので、あらためて、グラインダーの移動をはじめ、排塵がうまくいくやうに扇風機を前後兩方に置き直したりで時間がとられた。まあ、毛倉野の工房のやうにはいかないが、どうにか作業ができるやうになつてきた。それにしても、書庫を兼ねてゐるから、場所がせせこましい。早急に書物を整理しなければならない。 

 

『狗賓童子の島』 を讀んでゐると、やはり幕府は倒すしかなかつたといふ海舟の意見に賛成したくなる。「御公儀の威を借りて」、私利私欲を滿たすために民を苦しめ飢餓に死なせるやうな幕吏と、それに加擔する奸賊を天下に横行させてきた體制は當然倒されてしかるべきだ。江戸時代にどれだけ多くの一揆が引き起こされたか、誰でもちよいと調べれば、肝を潰すに違ひない。民のやむにやまれぬ死出の行動だつたことを思ふと、よくもまあこんな幕藩政治が長きにつづいたのか不思議でならないほどだ。 

飯嶋和一さんのこれまでの書もふくめて、心坦懐に讀めば、そんなバカげた體制が今日においても相變はらず横行してゐることを敎へられる。歴史を透かして二重寫しに見えてくるから不思議だ。 

しかしまたその一方で、人間があたたかく描かれ、互ひに信じるに値するものであるといふ著者の主張が物語の底流に流れてゐる。このことが飯嶋さんの魅力なんだらうと思ふ。ドキドキさせるとともに、心を温かくつつみ込む、ではなく、讀む者の善意と向上心といふのか生きる希望を育てようとしてゐるその筆力には感心するしかない。醜さを見せつけられるよりも、美しさによつて人はよりその生き方を修正され、正されていくのだらうと思はしめられる。 

 

以下、ネットニューズより─ 

 

*源氏物語で最古の写本発見 定家本の1帖「教科書が書き換わる可能性」 

源氏物語の現存する最古の写本で、鎌倉時代の歌人・藤原定家による「定家本」のうち「若紫」1帖[じょう]が、東京都内の旧大名家の子孫宅で見つかった。冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)が8日発表した。定家が校訂したとみられる書き込みや、鎌倉期に作られた紙の特徴などから、同文庫が定家本と鑑定した。 

既に確認されている定家本4帖は、いずれも国の重要文化財に指定されている。「若紫」は、光源氏が後に妻となる紫の上との出会いを描く重要な帖だけに、今後の古典文学研究に大きな一石を投じる可能性がある。 

源氏物語(全54帖)の定家本は、紫式部による創作から約200年後の13世紀初めに書き写された。昭和初期に国文学者・池田亀鑑[きかん]が調べ、「花散里[はなちるさと]」「柏木」「行幸[みゆき]」「早蕨[さわらび]」の4帖が確認されていた。 

今回鑑定した元文化庁主任文化財調査官の藤本孝一氏によると、冊子の大きさは縦219センチ、横143センチで、全132ページ(66丁)に抜け落ちがなかった。定家本の特徴とされる「青表紙」が施されていた上、本文を記した紙に鎌倉期に多い繊維がふぞろいの「楮紙打紙[ちょしうちがみ]」が使われ、上級貴族が用いた青みがかった「青墨[あおずみ]」で校訂した跡もあり、定家本と判断した。 

藤本氏は「公に存在が知られていない『幻の帖』だけあって現存を想定しておらず、青表紙を拝見した途端ただただ驚いた。紙質や各ページの行数を確かめ、ほかの4帖と筆跡を見比べ、間違いないと思うに至った」と話す。 

鑑定に協力した京都先端科学大の山本淳子教授(平安文学研究)は、定家本の流れをくむ室町時代の青表紙本系統の「大島本」(古代学協会所蔵)と見比べ、「一見したところでは、ストーリーの大筋が変わっているとは考えられない。細部に相違が見られ、研究が進むと、教科書の表現が書き換わる可能性はある。大島本からさらに250年、現代から800年もさかのぼって写本を確認できる意義は大きい」とみる。 

所蔵するのは、三河吉田藩主・大河内松平家の子孫に当たる大河内元冬さん(72)。今年2月に茶道具を鑑定してもらった際、東京都内の実家にあった写本が定家本の可能性があると指摘されたため、4月に同文庫へ鑑定を依頼した。明治時代にまとめた大河内家の所蔵目録に「黄門定家卿直跡、若紫」とあり、1743(寛保3)年に福岡藩主・黒田家から大河内家に贈られたと記されていたという。大河内さんは「いまだ実感がないが、定家ゆかりの場所で公表できて大変光栄に思う」と述べた。 

13日午前、兵庫県西宮市の関西学院大で開かれる「中古文学会」で藤本氏が詳細をスライド発表し、写真複製本の出版なども検討してゆくという。  京都新聞

 

 

十月九日(水)舊九月十一日(己卯 晴 

川野さんと靜嘉堂文庫美術館を訪ねる。これで三回目になるが、二子玉で待ち合はせてからバスでおもむく。今回は、【入門 墨の美術─古写経・古筆・水墨画─】といふテーマで、我が國の「墨の美術」の變遷をたどることができた。とくに肯じ得たのは、奈良時代は「古寫經」、平安時代は「古筆」、鎌倉・室町時代は「水墨画」といふ、時代ごとに特徴づけたその分け方である。漠然としてゐた墨の美術が一遍にあたまに整理された感じがした。 

これらそれぞれの現物といふか、國寶やら重文やらの本物が展示されてゐて、胸に迫つてくる思ひがした。今回ことさら感動したのは、先日來探してゐて、やつと持參できたツァイスの單眼鏡の威力である。文字はもちろん、水墨畫に描かれた遠景の人物などが、これで覗くとはつきりくつきり、人物の表情までも見えてくるその迫力である。古筆においても然り。ぼんやりとしか目にうつらないので、つい緊張感を缺いて解讀を斷念してゐたものが、一字一字はつきりと目の前に迫つてくるので、解讀せざるを得ず、思はず引き込まれてしまふのには驚いた。鑑賞とはよく言ふけれど、肉眼では、距離が遠すぎて、鑑賞どころか表面を素通りしてゐるにすぎないことを思ひ知らされた。ミュージアムスコープと謳はれてゐる所以であらう。

 

それは、川野さんに誘はれて午後訪れた、遠山記念館においてさらに確かめられた。高崎線の桶川驛とは遠いところだなと思ひつつ驛前に立つたのはまだ序の口、タクシーで片道二千五百圓あまり出費を強いられた田園地帯の眞つただ中の施設である。遠山何某の建築になるお屋敷の敷地内に建てられた記念館、といふより立派な美術館であるが、現在催されてゐる特別展がこれまたすごかつた。まづ、その謳ひ文句をひもとくと・・・ 

 

特別展「古筆招来 高野切・寸松庵色紙・石山切」 ─ 平安時代の仮名の名筆が室町時代に茶室の床飾りに使われるようになり、その後江戸時代を経て、近代の経済界の数寄者からも愛好されました。高野切、寸松庵色紙、石山切の3種の古筆はその中でも人気の高かった貴重な名筆です。本展は館外から重要文化財を含む3種の連れを招来して行う、初めての古筆展覧会になります。 平安時代を代表する仮名の名筆が16点、鎌倉時代以降の古筆や蒔絵調度など都合30点を展観します。 

 

屋敷内の美術館は、巨大な土藏のやうに聳え建つご立派なもの。ありました、靜寂につつまれた展示室の中で、待つてゐましたよと言はんばかりに、仕切られたガラスの内部にならべられた古筆の一點一點を、ツァイスのミュージアムスコープで鑑賞しつつたどつた。たつた三倍の單眼鏡だが、あらためてばかにできないと思つた。 

高野切・寸松庵色紙の「伝紀貫之」の六點からはじまつて、藤原定信、伝藤原公任、伝藤原行成、それに、藤原俊成の昭和切、特に定家の「後撰集歌切」はすべてが讀み通せたので、歓喜百倍! つくづく來てよかつたと思つた。 

また、中でも、伝紀貫之の寸松庵色紙、「山さとは」は、招待券に印刷されてゐたので、電車の中で川野さんと解讀してきた歌。作者「たゝみね」もよし、「山さとは」までもよし、ところがその次の文字が「れ」か「さ」か分らず、飛ばしてさらに、「こそことに、わひしけれ、しかのねなくに、めをさましつゝ」と讀めたので、分からない一文字がなんとも悔しい。そんな思ひをいだいてやつてきたので、その本物を目の前にして、それが「秋」といふ漢字であることを知つたときの悔しさ、安堵感、なんと表現していいかわからないけれど、これぞ變體假名マニアの醍醐味なのだらう。ただ、この歌が 『古今和歌集』 の「秋歌」のなかにあることが察知できてゐたら、もちろんもつと早くわかつてゐたはづだつた。それもまた悔しい。 

また、閉館間際になつてしまつたので、あわただしくも、「民家風の東棟、書院造りの中棟、数奇屋造りの西棟とで構成され、国の登録有形文化財に指定されている」といふ、遠山邸の内部を見學させていただいてから、再びタクシーを呼んで歸路につく。 

あ~あ、滿腹した秋の一日でありました。川野さんありがたうございました。 

 

今日はお出かけなので、文庫本の、岩下俊作著 『無法松の一生』 を持つて出かけたが、わくわくしながら讀み通し、映畫を見たいと思はしめられた。 

 

靜嘉堂文庫前にて、遠山記念館入口の長屋門 


 

 十月十日(木)舊九月十二日(庚辰 晴のち 

昨夜は、岩下俊作著 『無法松の一生』 を讀み終へたのち、ぐつすりと眠ることができて、爽快な朝を迎へることができた。 

玉子ごはんも食べることができたし、箸を作ろうとしてベルトグラインダーを動かしはじめたら、なんとベルトが切れて吹き飛んでしまつた。ちやうど#一〇〇の在庫がきれてしまつたので、より粗い#八〇を使はうとして箱をみたら、そこに使用期限は五年と記されてゐた。二〇〇〇年製造なので、すでに二〇年になんなんとしてゐるので、これはやめとこうと思ひ、立石のオリンピックに行つて新たに注文してきた。やむを得ず休業となつた。が、まあ臺風も近づいてきたことだし、しばらくは樂をしよう。 

 

讀書は、『狗賓童子の島』 を繼讀。今日のところでは、田作りについての詳細な記述が、毛倉野での米作りの記憶を呼び覺ましてくれた。 

それと、書庫兼工房で、大月隆寛著 『無法松の影』 が目にとまつたので讀んでみたいと思つた。

 


 

 

十月一日~十日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

十月二日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第四十五・四十六』 

十月二日 『法然上人絵伝 第四十七~四十八』 (岩波文庫) 

十月六日 阿満利麿著 『法然の衝撃』 (ちくま学芸文庫) 

十月九日 岩下俊作著 『無法松の一生』 (角川文庫)