十月十一日(金)舊九月十三日(辛巳 曇天のち雨降つたりやんだり 

「地球史上最大級か? 台風19号の勢力に世界が注目」なんてあつたものだから、家の周りを改めて點檢し、強風に備へ、その後猫たちと無爲にすごす。 

夜になつて、「毛倉野日記(十五)」(一九九五年六月)分を寫し終へ、お送りする。 

 

昨夕、立石のオリンピックから、注文したベルトグラインダー用のベルトに關しての再確認と値段を傳へてきた。それによると、一枚二枚では賣らず、まとめて一箱(一〇枚入)單位でしか販賣しないやうなのである。業務用だからなのであらう、#一〇〇と#八〇を一箱づつ注文した。 

 

十月十二日(土)舊九月十四日(壬午 風雨、夕方から一一時頃までが激しかつた 

群書類從本の 『さらしな日記』 を讀み進んでゐて困るのは、途中で途切れて、何丁も先のはうにつながり、またしばらくすると前の方にもどらなければならないことである。といふのも、錯簡を正したテキスト(小學館の日本古典文學全集)をかたはらに置いて讀んでゐるからわかるので、まあ、おかげで筋の通つた内容を樂しめるからいいにしても、錯簡だらけの群書類從本だけを讀んでゐるととんでもないことになる。だが、書物(和本)としても、筆寫された文字使ひにしても、外形から言へばぼくはダントツ群書類從本派である。

 

午後、臺風情報が氣になりながらも、借りてきたDVD 『無法松の一生』 を觀る。監督は稲垣浩、脚本は稲垣・伊丹万作、主演が三船敏郎の作品である。見ごたへがあつた。時代の雰圍氣がよく出てゐたと思ふ。原作を讀んでゐたので、省略されたところも頭の中で補ふことができて、なんら遜色がなかつた。また、キャストがいい、實に豪華だ。

 

富島松五郎:三船敏郎、  吉岡良子:高峰秀子、  吉岡小太郎:芥川比呂志、  結城重蔵:笠智衆、     宇和島屋おとら:飯田蝶子、    熊吉:田中春男、  撃剣の師範:宮口精二、  清吉:多々良純、      高校の先生:土屋嘉男、  オイチニの薬や:有島一郎、  巡査:稲葉義男、    居酒屋の亭主:左卜全

 

以上、すべての顔が浮かんでくる懐かしい役者ばかりで、それだけでも樂しめた。

 

で、臺風十九號は最惡のコースを進んで來て、伊豆半島に上陸。葛飾區からははじめてとなる緊急避難情報が携帶に屆いた。綾瀨川の上流が危険水域に達したからといふ知らせだつた。これは大變と思ひ、パヂヤマを着がへ、母と從兄家族、それにご近所のひとり暮らしの老婦人を南綾瀨小學校へ避難させたはいいけれど、夜半になるかならぬうちに臺風が通り過ぎ、また迎へに行くはめになつた。 

ところで、避難してわかつたことは、役所の人間の融通のなさである。體育館に入るのに、一人ひとり名前と住所を書かせるのはいいけれど、數珠つなぎでならぶ避難住民を雨の中で待たせるのである。中に入つてからだつてできないことはないはづで、それを雨ざらしに待たせたので無性に腹が立つた! 

 

十月十三日(日)舊九月十五日(癸未 快晴 

今日は快晴。昨日の嵐が嘘のやう。で、のんびりと讀書、と思つたら、臺風の被害の大きさにびつくり。年間雨量の三、四割の雨が二日ほどでまとめて降つたといふのだから、計り知れない自然の猛威である。河川の氾濫による被害がこれからも出さうである。 

外敵に備へるために改憲が必要といふならば、自然災害といふ問答無用の災難にたいしての防備はどうなのかと問ひたい。どだい國民のささやかな生活など眼中にないやうな政治こそ問はれなければならず、そこでぼくは、あらためて 「大鹽平八郎の檄文」(註) を讀んでみた。天保八年(一八三七年)と言へば、幕府が倒れるたつた三十年前である。しかもこの間に幕府の手によつてどれだけ多くの有能な人材が殺され、庶民が虐げられたかを思ふと、ぼくはやはり幕府は倒されるしかなかつたと思はざるを得ない。”アベ政權” もしかり。はたしてどのやうに崩壊するか、これを見ないうちは決して死ねない! 

 

註・・・『大鹽平八郎の檄文』とは、亂の直前に大坂近郊にバラまかれたこの亂の趣旨を傳へるビラである。この『檄文』は、亂後も、人から人へ傳はり、回りまはつて、その文に刺激された國學者・生田萬(いくたよろず)が、越後・柏崎で蜂起したり、大鹽門弟と名乘る人物が攝津・能勢で兵を擧げたり・・・といつた事が各地で起きるやうになり、幕府倒壊の一石を投じたことは間違ひない。 

徳川幕府にとつては、大鹽平八郎は、反逆人であり、その後も必死になつてあることないこと平八郎の悪い噂を流し續けたが、大坂市中の町民も、周邊の農民も、そのような中傷はガンと跳ね除けて、「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」といふ氣持ちを強く持つてゐて、『檄文』をひそかに隠し持つて、永く手習ひの手本にしたと言ふ。

 

註・・・生田萬の乱(いくたよろずのらん)は、天保の大飢饉のさなか、天保8年(1837年)6月に国学者の生田萬が越後国柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。同年の大塩平八郎の乱の余波。

 

ここで、忘れないために、生田萬のお墓を、バスの中からだつたとはいへ、訪ねたことを記しておきたい。『 歴史紀行 五十九 北國街道を往く(三・後編) 』 にその經緯が詳しく記されてゐる。その際、大鹽平八郎の亂にふれ、ちよいと勉強したことを當時の日記に詳しく書いておいた。二〇一四年三月の「ひげ日記」で(八日から廿一日まで飛び飛びに)、何日にも渡るが、暗中模索の獨學の樣子がなつかしくよみがへる。その最後の文・・・。 

 

「・・・といふわけで、生田萬が(大鹽平八郎に)共感を覺えて贊同したのもうなづけます。もちろん遠くから拍手を送つただけでなく、同樣の状態にあつた、『天保飢饉にあえぐ柏崎領民を救うべく數度の嘆願を草するも、藩に無視され、天保八年二月の大坂大鹽平八郎事件を受けて六月に同志を募り、柏崎陣屋を襲撃。失敗して、自ら生を斷つた』。これを生田の亂と申します。 

彼は、國學者として平田篤胤の門人でありましたが、蜂起の際には『大鹽門人』を自稱してゐたと言ふのですから見上げた者です。かうして、時代に必要な人材が失はれていくのは、日本の歴史を學んでゐると日常茶飯のやうでありますが、これこそがわが國を内側から滅ぼす病といつたら言ひ過ぎでせうか。その生田萬のお墓を、バスの中だつたからとはいへ、素通りしてしまつたのは、なんとなく濟まない思ひがいたしました」

 

*大鹽平八郎畫像 と 生田萬の墓

 


 

 

十月十四日(月)舊九月十六日(甲申・望 小雨降つたりやんだり 

『さらしな日記』 と 『狗賓童子の島』 を繼讀。

 

午後、BSで、“グリーンマイル”を見る。「アメリカ南部の死刑囚舎房を舞台」といふので、今まで見る氣がしなかつた記憶があるが、もつと早く見てゐればよかつた。ぐつと引き込まれて感動的ですらあつた。最後に語られる 「人はみはグリーンマイルを歩いてゐる。それぞれ自分の歩調で」、といふ言葉はこころに沁みた。  

 

十月十五日(火)舊九月十七日(乙酉 終日曇天一時日差し 

今日も 『狗賓童子の島』 を繼讀。主人公が醫術を學び、醫師として種痘を試みるところと、それにつづく、外國から入つて來たコレラにたいする治療の描寫は壓卷と言つていい。どこでどのやうに調べたのか、説得力があつてその筆力には敬服するしかない。 

それにしても、民間の努力にたいしてなんら役に立たず、ただ禁止して違反したものを處罰するしかない幕藩政治のなんたるていたらく。現在の状況とどうしても二重寫しになつてしまふ。

 

箸作りをしたいけれど、ベルトがまだ屆かない。午後、ペットフードを買ひに行くといふ妻につきあつて、大谷田のホームセンター島忠に行つて聞いたところ、ベルトは扱つてゐないといはれる。オリンピックからの連絡を待つしかない。 

 

友人知人から、臺風に關する知らせが屆き、みな無事であつたやうでほつとした。とにかくすごい雨臺風で、河川の氾濫被害が甚大である。ぼくのところでは綾瀨川が氾濫するかも知れないといふ緊急避難情報がきたり、南伊豆、淸水、さいたまの友人たちはそれぞれ危険個所をかかへてゐるので心配したが、このまま平常にもどつてくれれば幸ひである。 

ちなみに、南伊豆在住のさんちやんからのメールを記録しておきたい。 

 

「こちら一同無事です。今回は伊豆半島に上陸必至とのことで窓にベニヤを打ち付け、水と非常用電気、食料を備えて家で恐怖を味わいつつやり過ごしました。お年寄りや小さい子のいる家族などは小学校に避難していたようです。前回の台風の時は、ストーブの煙突が捻れ折れてしまったので今回は、あらかじめ外しておきました。前の川の水位も上がりましたが、過去最高とまではいかなかったです。というわけで、南伊豆は思ったほど被害は小さかったようです。伊浜、天神原などではまだ停電が続いているようですが。人が色々計算してこしらえた堤防や護岸も台風や自然から見たら砂の城のようなものって気がします」 

 

 

十月一日~十五日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

十月二日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第四十五・四十六』 

十月二日 『法然上人絵伝 第四十七~四十八』 (岩波文庫) 

十月六日 阿満利麿著 『法然の衝撃』 (ちくま学芸文庫) 

十月九日 岩下俊作著 『無法松の一生』 (角川文庫)