四月卅日(月)壬辰(舊三月十五日・望) 

 

さて、まづ、倒幕計畫が發覺した「正中の變」(一三二四年九月)の二年後、後醍醐天皇の第一皇子・護良親王が出家をいたします。尊雲法親王の誕生です。 

 

嘉暦元年(一三二六年)九月 皇子、尊雲、梶井ニ於テ、得度セラル 

 

これが、『史料綜覽』 における、護良親王に關する初見です。たぶん。その誕生(日)については、『史料綜覽』 も含めて、どの事典を見ても書かれておりませんし、それにしても、後醍醐天皇(大覺寺統)側の史料が公的なものは別にして、私的な日記等の記録が少ないことがわかります。それで、だいぶ損してゐるのではないでせうか。 

次は、『續史愚抄』 の同じ嘉暦元年九月の記述です。 

 

今上皇子(=護良親王) 第一也。而ルニ尊良親王ヲ以テ一宮ト爲ス。因ミニ第四分ノ爲カ。御年十八歳。未ダ親王ナラズ。梶井室ニ於テ得度。法名尊雲。此日、直ニ大僧都ニ任ジラルト云フ(原漢文) 

 

これによれば、のちに父・後醍醐天皇によつて裏切られ、足利尊氏と戰はされて殺されたわけは、意見の違ひだけでなく、いはば側室の子だつたから、といふ憶測が成りたつかも知れません。第一皇子にもかかはらず省きにされ、親王にもなされてゐません。「四分」とは、「次官」のことのやうで、上に立つ能力がないと見下されたといふことなんでせうか。これはぼくの憶測ですが、それでも、次の年・・・ 

 

嘉暦二年(一三二七年)十二月六日 尊雲法親王ヲ天台座主ニ補シ、三品ニ敍ス 

 

天台座主の任に着いたとありますから、愚かではありえず、父からは敬遠されてゐたと言ふことでせう。 

ところが、次の年(一三二八年)の十二月には天台座主を「罷メ」(しりぞい)てしまひ、さらにまた次の年、元德元年(一三二九年)十二月十四日には、「天台座主ニ還補」、再任されて返り咲くのです。そして、たうとう還俗し、元弘の亂に突入です。この時には、大塔宮と自他共に稱してゐたやうです。まあ、かう立場を變へつつ、自らの氣持ち調整し、といふか目標を定めていつたのでありませう。 

 

元弘元年(一三三一年)八月廿四日 (後醍醐天皇)神器ヲ奉ジテ、俄ニ奈良ニ行幸アラセラル、六波羅ノ兵、來リテ宮中ヲ索ム 

同廿七日 是ヨリ先、車駕、奈良ヲ發シ、鷲峯山ニ次シ、是日、笠置山ニ行幸アラセラル 

六波羅、兵ヲ發シテ、叡山ヲ攻メシム 

是ヨリ先、藤原師賢、叡山ニ赴ク、是日、六波羅ノ兵來リ攻ム、尊雲、尊澄兩法親王、東坂本ニ拒戰ス、尋デ、師賢ト前後シテ、笠置ニ走リ給フ 

同九月六日 六波羅ノ兵、又笠置ヲ攻ム 

同月十四日 是ヨリ先、楠木正成、兵ヲ起シ、赤坂ニ據ル 

 

まだ、赤松圓心は動かうとしてゐませんが、この九月二十日には、逃亡した後醍醐天皇にかはつて、皇太子量仁が践祚し、光嚴天皇となります。 

 

元弘元年(一三三一年)九月廿八日 東軍、笠置ヲ陷ル、後醍醐天皇、逃レ出給フ 

同廿九日 東兵、後醍醐天皇ヲ有王山ニ要シ、平等院ニ奉ズ 

同十月十五日 東兵、大擧シテ、楠木正成ヲ赤坂城ニ攻ム 

同月廿一日 赤坂城陷ル、楠木正成遁レ去ル 

 

後醍醐天皇とともに、尊良親王と尊澄法親王も捕らはれ、天皇は隠岐に、尊良親王は土佐に、尊澄法親王は讃岐にそれぞれ「遷シ奉」られてしまひます。楠木正成も、赤坂城を追はれますが、まだまだ捨ててはゐません。また、この間、足利尊氏はまだ表立つた活躍はしてをりませんが、じわじわと包圍網を狹めてきてゐることはたしかですね。 

 

さて、尊雲法親王(護良親王)ですが、苦しい戰ひを強ひられ、苦戰してをります。 

 

元弘二年(一三三二年)六月六日 尊雲法親王、令旨ヲ熊野山ニ傳ヘ給フ、山徒、之ヲ六波羅ニ告グ、既ニシテ、親王、京都ニ匿レ給フト訛言シ、人心動搖ス

 

同七月廿七日 尊雲法親王、金剛峯寺ニ令シテ、兵ヲ出サシメントシ給フ、僧徒、之ニ應ゼズ 

十一月 是月、尊雲法親王、還俗シテ、名ヲ護良ト改メ給ヒ、吉野ニ兵ヲ起シ給ふ、楠木正成、千早城ニ據リテ之ニ應ズ 

十二月九日 幕府、護良親王、及ビ楠木正成ノ攻撃ニ依リ、近畿等ノ諸族ヲシテ、來リテ軍ニ會セシム 

 

このあたりから、楠木正成は連戰、赤坂城を攻め、河内天見にて戰ひ、河内の守護代を撃ち破り、これらを見定めたからか、ここでやつと赤松則村(圓心)が登場いたします。 

 

元弘三年(一三三三年)正月廿一日 赤松則村、兵ヲ起シ、播磨苔縄山城ヲ築キテ、官軍に應ズ 

同月廿二日 楠木正成、兵ヲ収メテ葛城ニ歸ル 

 

二月になると、正成は、吉野を奪つてゐた「吉野執行ヲ撃チテ之ヲ走ラ」せ、護良親王も善戰に轉じ、赤松圓心も攻めたて、さうかうするうちに 

 

同年閏二月廿四日 後醍醐天皇、潜ニ隠岐ヲ出デ、出雲ニ航シ給フ 

同廿八日 後醍醐天皇、伯耆大坂港ニ幸シ給フ、名和長年、迎ヘテ船上山ニ奉ジ、舉族擁衞ス 

 

このあとは、ご存じ尊氏の後醍醐天皇側への寢返りと、鎌倉幕府滅亡。さらに、天皇と護良親王との確執がふかまり、朝廷側最大の功勞者であり軍勢を持つ護良親王を排除したい尊氏の思ひとが重なり、その結果、護良親王の排除、捕縛にいたつたところまで・・。 

護良親王は、『悪党の裔』 によれば、鎌倉幕府に代はる、武士の力に賴らない天皇中心の政治を望んでゐたやうです。が、後醍醐天皇のやることなすこと武士の期待に反することばかり。武士を統率するどころか、武士の棟梁たる足利尊氏を戴く新しい幕府の幕を開けてしまふことになつたのであります。 

 

*四月一日~卅日までの讀書記録

 

四月一日 桐野夏生著 『天使に見捨てられた夜』 (講談社文庫) 

四月四日 笹本稜平著 『特異家出人 警視庁捜査一課特殊犯捜査係・堂園晶彦』 (小学館文庫) 

四月十六日 北方謙三著 『破軍の星』 (集英社文庫) 

四月廿一日 飯倉晴武著 『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 (吉川弘文館) 

四月廿二日 森 茂暁著 『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』 (そのうちの、第三章 南朝の時代 講談社選書メチエ) 

四月廿三日 高橋克彦著 『南朝迷路』 (文春文庫) 

四月廿三日 水上勉著 「義貞記」 (原題「藤島の戦い」、『越前記』所収・中公文庫) 

四月廿六日 北方謙三著 『陽炎の旗』 (新潮文庫) 

四月廿七日 北方謙三著 『悪党の裔(上)』 (中公文庫)