四月廿日(金)壬午(舊三月五日) 晴、暑い

 

讀書と散歩が交互のこの頃ですが、今日は、『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 を讀み進みました。

 

元弘の亂によつて隠岐に流された後醍醐天皇にかはつて即位した第九十七代光嚴天皇ですが、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が復位したことにより、退位させられてしまひます。正慶二年・元弘三年(一三三三年)五月のことです。 

それもただの退位ではなく、僞の主上として、その在位は認めないといふ處置でありまして、在位中の政治的行爲である改元、叙位、除目はすべて無効とされて、光嚴天皇が皇位にあつた一年九ヵ月はなかつたことにされてしまつたのであります。これが第一の地獄でありました。 

退位した光嚴天皇は、まあ、變なことですが、後醍醐天皇からすればまだ皇太子であつたわけで、それがあらためてここで太上天皇、つまり上皇とされ、光嚴院と呼ばれるやうになります。

 

これらの激變で最も打撃を受けたのは、光嚴院の父、後伏見天皇でした。鎌倉幕府滅亡の象徴的事件とも言へる、番場宿の蓮華寺で地獄のやうな惨劇をまのあたりにした、後伏見、花園、光嚴でしたから、すでに出家してゐた花園上皇につづいて、後伏見上皇も歸京後ただちに出家いたしました、が、出家をすすめられても光嚴院はきつぱりと斷つたといひます。まだ若い光嚴院、きつと期するところがあつたのでせう。 

 

さて、建武二年(一三三五年)七月、中先代の亂が起こり、鎌倉幕府に引きつづく、足利幕府との軋轢を深め、鎌倉に幽閉されてゐた護良親王が、そのどさくさにまぎれて、尊氏の弟、直義によつて殺されてしまひます。 

同年十月、後醍醐天皇のやり方に業を煮やした足利尊氏は、結果的に反旗を翻すことになり、ここに、後醍醐天皇の官軍と足利尊氏の賊軍との戰ひの火ぶたがきつておろされたのでありまして、建武の新政が崩壊したできごとでもありました。 

その結果、新田義貞軍に加へ、陸奧守北畠顕家軍、楠木正成、名和長年らの手勢によつて、足利軍は九州へ落ちのびて行つたといふことになつてをります。 

 

ところが、地方の武士の心をつかんでゐた尊氏は、二ヶ月あまりで軍を再編して東上し、京へ攻め上つてくることができたのであります。問題は、尊氏は朝敵とされてしまつたことでありまして、それを解決したのが光嚴院だつたのです。その仲介役となつたのが、醍醐寺三寶院僧正賢俊で、光嚴院から、「新田義貞与党人等を誅伐すべきの由」の院宣を尊氏に屆け、かくして官軍は大敗、光嚴院は、落ちて行く後醍醐天皇の同行を斷つて、足利尊氏の計らいによつて六條殿に入つたのでありました。それが、五月から六月にかけてのこと。 

「ここに光嚴院は完全に後醍醐と対極の位置に立ったのである」と、著者はおつしやつてをります。

 

延元元年・建武三年(一三三六年)六月廿一日 光嚴上皇、高野山金剛峯寺ニ舊領ヲ安堵セシメ、天下ノ安全ヲ祈ラシメ給フ

 

弟、光明天皇が践祚し、自らは上皇として、以後、所領安堵と祈祷命令を頻繁に出すことによつて、「治天の君」として、思ふままに振る舞ひはじめるのであります。院政をとりしきる舞臺ができあがつたといふことでもあります。