四月十七日(火)己卯(舊三月二日・土用) 晴のち曇りのち雨

 

飯倉晴武著 『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(註) を讀みはじめました。面白いといふより、好奇心と知識を滿たしてくれる内容です。ですから、正確に理解するにはよほど明晰な頭腦を驅使しないと、頭の中を通り過ぎてしまふだけです。

 

そもそも、なぜ光嚴天皇かといひますと、一つには、もう六年前になりますが、友人から、岩佐美代子著 『光嚴院御集全釈 私家集全釈叢書27』(風間書房) といふ高價な本をいただいたことであります。さういへば聞いたことはあるけれども、歴代天皇の系譜には入つてゐない天皇(?)ださうで、まだ和歌にも不慣れな時期でしたから、そのまま大切に書庫に保管されてゐたのです。が、南北朝時代を語るのにといふか、理解するには光嚴天皇の存在を無視したり、輕く通り過ぎるわけにはいきません。とはいへ、本格的に取り組むわけにもいかず、參考書をしつかりと讀んで、せめてその生涯を垣間見たいと思ひました。

 

それで、參考に、『光嚴院御集全釈』 を書かれた岩佐美代子さんの 『宮廷に生きる―天皇と女房と』(笠間書院) といふ講演集のなかに、「光厳天皇─その人と歌─」といふ章があつたので、まあ、參考書のための參考書のやうなかたちですが、その冒頭に衝撃的なことが記されてありました。ちよいと長いのですが寫しておきます。 

 

「光厳天皇という方は、現在では天皇の正統の御歴代から外れまして、北朝第一代として扱われておりますけれども、実は九十六代後醍醐天皇に継ぐ、紛れもない九十七代の天皇でいらっしゃいます。そして、皇統というものも、明治天皇の前の孝明天皇の時までは、明らかに北朝を正統であると、天皇も社会も考えておりました。現在、南朝を正統とし、天皇の代数もそのために一代減って、現天皇で百二十五代となっておりますのは、明治の末の南北朝正閏(せいじゅん)論の結果、明治天皇が御裁定になったものです。 

南北朝正閏論というものの裏には、朱子学に基づく水戸学的な儒教思想による南朝崇拜が江戸時代後半に起こりまして、それが王政復古の思想的な背景をなし、維新以後、政治的社会的に他の思想を圧迫して、万世一系の皇国思想を宣揚し、結局は侵略主義に国論を誘導していったと、そういう経緯がございます。 

戦前には、現在の皇統が北朝系であるということをひた隠しにしたうえで、後醍醐天皇・正成・正行を賛美し、尊氏を逆賊とし、北朝に至ってはその存在すら抹殺して、おしまいにはもう、南北朝とさえ言わない、吉野朝と言わなければいけない、というふうに指導されました。 

今日再び後醍醐天皇、南朝の存在だけが、一種のロマンチシズムをもって誇大に語られておりますのは、将来に向かって歴史を歪めて伝えるもので、戦前の愚かさを再び繰り返すことになるのではないかと、これは杞憂に過ぎないかもしれませんけれども、私はそういう危機感を持っております」

 

 これは、もう、その時代を生きてこられた方の證言ですね。歴史はかくもねじ曲げられるのだといふ、そこらの歴史書では聞けない證言だと言つていいと思ひます。 

それで、光嚴天皇ですが、いや、また次の機會にいたします。 

 

註・・飯倉晴武著 『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 (吉川弘文館 歴史文化ライブラリー) 敗者は勝者から否定され、歴史から忘れ去られるのか。北朝初代の天皇、上皇となった光厳院は、南朝の後醍醐天皇や足利尊氏に翻弄され、二度も生き地獄を味わった。歴代天皇から外された悲劇の生涯とその時代を描く。

 

今日の寫眞・・飯倉晴武著 『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 と 岩佐美代子さんの 『宮廷に生きる―天皇と女房と』。