四月九日(月)辛未(舊二月廿四日) 晴、強風

 

今日の讀書・・『破軍の星』 を讀みつづけながら、讀んだ内容に即したところまで、『史料綜覽 卷六 南北朝時代之一』 の第一頁から六十六頁までを通讀しました。 

年代は、後醍醐天皇の元弘三年(一三三三年)五月から、建武二年(一三三五年)十二月まで。後醍醐天皇が隠岐を脱出した直後の記事からであります。 

 

元弘三年(一三三三年)五月廿三日 天皇、伯耆ニ在シテ、京都ノ捷ヲキカセラレ、是日、駕ヲ發シテ、東遷シ給フ。 

 

つまり、北畠親房の 『神皇正統記』 によれば、流刑にあつた後醍醐天皇が、「しのびて御船に奉りて隠岐を出て、伯耆につかせたまふ」 といふ場面であります。 

それに呼應するやうに、足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府に反旗を翻し、「都にある東軍みなやぶれて、あづまへこころざしておちゆきしに、近江國馬場といふところにて御方にこころざしある輩うち出にければ、武士はたたかふまでもなく自滅しぬ」。 

まさに、鎌倉幕府滅亡といつた場面であります。が、ちよいと餘分なところまで引用しました。「近江國馬場」とは、中仙道の番場宿でありまして、番場の忠太郎でも有名なところであります(註一)。蓮華寺にその忠太郎の碑があつて、長谷川伸の物語の主人公にすぎないのに、そちらのはうで有名のやうです。このお寺は、しかし、足利尊氏に追はれた六波羅探題・北條仲時以下四三二名が自刃したお寺なのであります。《中仙道を歩く》では、忠太郎に氣をとられて失念するところを、出發間際になつてどうにか墓所を探し訪ねることができましたが、ゾクゾクとしましたね(註二)。 

北條顯家のことにもどります。 

 

元弘三年(一三三三年)十月二十日 陸奧守北畠顯家、皇子義良ヲ奉ジテ任ニ赴キ、併セテ出羽ヲ管ス、北畠親房モ亦從ヒ往キテ、結城宗廣ト共ニ之ヲ輔ク。 

同十二月十四日 足利直義、成良親王ヲ奉ジ、往キテ鎌倉ニ鎭ス。 

 

後醍醐天皇にはたくさんの皇子(親王)がゐて、敵味方どちらに轉んでも跡繼ぎが絶えないやうにしてゐるところが見え見えですね。それがまた、後南朝といふやつかいな歴史を負はせることになるわけであります! 

 

建武元年(一三三四年)八月 京人落書ヲ作リ、二條河原ニ掲ゲテ、時事ヲ諷刺ス。──これなど見てみたいですね。

 

さて、この十一月には、大塔宮・護良親王が鎌倉に流され、建武二年(一三三五年)七月に起こつた中先代の亂に乘じて足利直義に殺されてしまひます。「足利一族の前に立ちはだかる、最も大きな障壁だった」からでありました。全国の武士たちのこころは、すでに、「闘いもせぬ公家たちが、大きな顔をする朝廷を離れ」、正當に論功行賞のできる足利尊氏を棟梁として望んでゐたのでありました。 

 

建武二年(一三三五年)十一月十九日 足利尊氏、直義、鎌倉ニ叛ス。 

同年十一月廿五日 官軍(新田義貞)、高師泰等ト、三河矢矧川ニ戰フコト三日ニシテ、之ヲ破リ、追撃シテ駿河手越ニ至ル。 

同年十一月廿六日 京官除目、足利尊氏、直義ノ官爵ヲ削ル。 

 

そして、ついに・・・ 

 

同年十二月廿二日 北畠顯家、義良親王ヲ奉ジテ陸奧ヲ發ス。斯波家長、相馬重胤等ヲ率ヰ、顯家ヲ尾シテ鎌倉ニ戰フ。顯家、遂ニ尊氏ヲ追ヒテ西上ス。 

 

とまあ、ここまで讀み進みました。顯家はこれからどうなるのでありませうか。 

 

註一・・番場の忠太郎(ばんばのちゅうたろう) 長谷川伸の戯曲 『瞼(まぶた)の母』 の主人公。 近江(滋賀県)番場生まれのやくざ。5歳のとき生きわかれた母をさがしに旅にでる。江戸柳橋の料理屋水熊の女将おはまが母とわかるが、おはまは名のらず、忠太郎は母への思いを胸にふたたび旅だつ。昭和6年の初演以来、舞台、映画、テレビなどで数おおく上演。 

註二・・『中仙道を歩く(廿八・前編) 醒井宿~愛知川宿』參照。 

 

今日の寫眞・・ぼくが訪ねた、番場の忠太郎碑と北條仲時以下四三二名の墓所