四月廿三日(月)乙酉(舊三月八日・上弦) 曇天

 

今日も一日、高橋克彦著 『南朝迷路』 を讀んで過ごしました。讀んでゐて、物語の内容はさておき、舞臺となつてゐる、隠岐、吉野、そして長野縣の大河原(大鹿村)に行きたくなつてしまひました。それと、賀名生です。みな南朝に關係あるところです。 

まづ、隠岐ですが、ここはもう憧れの島ですね。その一つは、後鳥羽上皇行在所跡です。承久の亂で敗北したため、隠岐に配流され、約二十年間を過ごして崩御した場所です。二つめは、ご存じ、後醍醐天皇が流されて過ごした黒木御所跡です。 

吉野は觀光ツアーで訪ねたことは訪ねたのですが、なにせ時間が限られてゐたので、後醍醐天皇陵と吉野朝宮址を訪ねるのが精一杯でした。西行庵もふくめて、ゆつくりと見學したいです。 

大河原は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が約三十年にわたつて南朝軍の據點としたところ。その行在所が、信濃宮神社として現存してゐます。まあ、明治になつてから注目され、整備がされたのは昭和も戦後に入つてからだと言ひます。 

 

註・・宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385914日(元中2/至徳2810日)? )は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。 

1344年(興国5/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国(武蔵野合戦)にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。 

拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、北上すると長谷を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。 

終焉場所については、1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。 

親王は南北朝第一の歌人と称せられ、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」がある。 

 

賀名生(あなふ)は、昨日書いたやうに、南北朝時代、後醍醐・後村上天皇の行宮があつた場所で、光嚴天皇が幽閉されてゐた所でもあります。梅の名所ださうです。 

以上、命がつきるまでに訪ねてみたいところです。と言へば、佐渡にも行きたいですね。