四月十四日(土)丙子(舊二月廿九日) 曇天

 

今朝は五時半、携帶メールの音で目を覺ましました。家では、マナーモードを解除しておかないと、かかつてきたことが分からないからでありますが、それにしても早起きをしてしまひました。 

それが、昨日の「ひげ日記」の感想でありまして、たしかに、「小石川植物園は、あまり、整備されすぎず自然のままが残され、大木や珍しい樹も多い」ところでした。 

ぼくは、そもそも、小石川植物園なんて、單なる藥草園で、それに附屬して、養生所が作られた所としか思つてゐませんでした。ところが、藥草どころか樹木が壓倒的に多かつたのには驚くやらうれしいやらでした。

 

それと、幸田・靑木邸に關して、これも、ご指摘を待つまでもなく、幸田文さん、靑木玉さん、奈緒さんのお住まひでありまして、しかも、玉さんが九歳のときに、「小石川蝸牛庵に引っ越した後の様子を綴った自伝的随筆 『小石川の家』 を発表し、それは、1995年に芸術選奨文部大臣賞を受賞」してゐる、曰く付きの家なのであります(註)。

 

註・・幸田玉著 『小石川の家』 昭和13年幸田文は離婚し、娘の玉を連れ青々とムクノキの枝がはる露伴の小石川の家に戻った。万事に愚かさを嫌う祖父(幸田露伴)の小言の嵐は9つの孫にも容赦なかった。祖父の手前蹴とばしても書初めを教える母。「2度はご免蒙りたい」10年の歳月をクールにユーモラスに綴り、晩年の露伴、文の姿を懐かしく匂い立たせる。 

 

ところで、今日は、妻と一緒に、《安倍政権は退陣を! あたりまえの政治を市民の手で! 0414国会前大行動》 に參加するために、國會議事堂に行つてまゐりました。妻が參加したがつたのと、今日なら出かけられると言ふものですから、晝食も外で食べようと言ひながら家を出てきたのでありました。 

途中、押上驛の東京スカイツリータウン六階にある銀座天龍で餃子をいただきました。やつと來れたね、といふわりには、二人とも食べきれないで殘してしまひました。これで力が出るかしらなんてぼやきながらも、それでも國會議事堂にはたどりつくことができました。

 

永田町の驛から地上に出ると、まだ一時半でしたが、すでに多くの人々が群がり集まつてきてゐました。道路際にバリケードを張りめぐらし、警察官の警備は萬全なのでせう。でも、いつものやうかなと思つて歩いてゐましたが、二時にシュプレヒコールをもつて集會が開始され、各野党のあいさつがつづきました。次第に參加者ももりあがつてきまして、それにあはせるかのやうに、機動隊が出動してきまして、さらに集まつてきた人々との軋轢は避けやうがなくなつてまゐりました!

 

で、ぼくと妻は、言ひ譯ではありませんが、母が一人で留守番してゐることでもあるし、このへんで歸ろうかと、心を殘して歸路につきました。 

いやはや、ぼくたちなんか、ただ參加したといふだけのことで、枯木も山の賑はいに違ひありませんで、見渡せば枯木ばかりなのがちよいと心細くありました。 

 

今日の寫眞・・國會議事堂周邊。