四月十八日(水)庚辰(舊三月三日) 雨のちやみ、夕方には晴

 

『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 を讀み進みましたが、これまた、參照すべき史料が多くて手まどつてしまひました。 

まづ、『史料綜覽 卷五 鎌倉時代之二』 によつて、光嚴天皇が登場するまでの前史を通讀し、ついで、本書の内容にそつて、光嚴天皇=量仁(かずひと)親王が、叔父にあたる花園天皇によつて學問をたたき込まれたこと。それを、手持ちの 『花園天皇宸記』 を開いて、引用されてゐる内容を確認しました。もちろん原文は漢文でありまして、引用された書き下し文を參照しながらも漢文をたどつてみました。

 

「幼年之人、以連句先可知字訓韻聲等之故也、不知字者經典之文皆不可讀」(幼年の人が〈學問をはじめようとするとき〉、まづ連句を學ぶのは、漢字の訓〈よ〉みや韻・聲を知るためである。文字を知らなければ、經典を讀み理解できない)。

だからはじめに連句を學ぶのであると敎へてゐるのであります。ただ、「連句」といふものがどういふものか、ぼくにはよくわかりません。『光嚴院御集』 ができるくらゐの和歌の素養を敎へられたといふことでいいでせうか。で、その方法ですが・・・ 

 

元亨元年(一三二一年)八月廿二日 癸亥、晴、自今日親王被始百日連句、如法密々、爲稽古也 (今日より親王百日連句をはじめられる、決められた敎への通りに、こまやかな配慮をもつて、稽古をなすなり) 

同月廿七日 戊辰、今日親王有風氣、然而爲不闕百日聊出坐、連句卅韻 (今日親王風氣〈風邪氣味〉あり、百日を闕かさずため、聊さか出坐す、連句三十韻) 

 

ところで、この花園天皇は、量仁親王の父、後伏見天皇の弟でありまして、著者が言ふには、「これだけの学問をした人は古今東西さがしてもそう多くいると思えない」、といふ天皇であります。風邪くらゐでは休ませなかつたのかも知れません。 

とまあ、言ふことをきいて、量仁親王もよく勉強された方のやうですが、その勉學を邪魔したのが、後醍醐天皇の擧兵でした。それは、元弘元年(一三三一年)八月、倒幕の企てが發覺した後醍醐天皇が、南山城の笠置山に立て籠もつて捕らはれたため(元弘の乱)、九月二十日に光嚴天皇が誕生したのでありました。

 

持明院統と大覺寺統との皇統迭立の約束によつて、光嚴天皇が九十七代天皇に践祚、十九歳のときでありました。が、その即位の儀式にあたつては、三種の神器がそろつてゐたのかそろはなかつたのか、謎のやうですが、光嚴天皇の尚侍で、即位式に奉仕した日野名子がそのときの樣子を書いてゐるんですね。ぼくの手もとに、その著書 『竹むきがの記』 がありまして、これも原文を讀みましたら、「劍璽(つるぎ・まがたま)が皇居に着くと二人の内侍が御帳間左右において請取り、我が身がそれを夜御殿に置きました。十月十日の頃でした」と記してありますので、まあ、間違ひなかつたのではないでせうか。ちなみに、八咫鏡は、後醍醐天皇がもつて行つたとも言はれてゐますが、火災にもあはずに、はじめから「皇居」に祭られてゐたやうです。

 

今日の寫眞・・戰前のタブーを一掃し、岩佐美代子さんをして、「この御本に接して得ました感動は、私、忘れ難いものがございます」と言はしめた、高柳光壽著 『足利尊氏』(春秋社) と、岩佐美代子著 『光嚴院御集全釈 私家集全釈叢書27』(風間書房)。